巨砲の残響――呉への北上
昭和二十年四月十九日、午後二時。
奄美大島北方からトカラ列島沿いへと延びる東シナ海東縁の海域。
雲底の低い鉛色の空の下、波頭を切り裂いて北上を続ける細長い単縦陣があった。
先頭を進むのは、ステルス形状の鋭角な上部構造物と四面の八角形レーダーを鈍く光らせる海上自衛隊のイージス護衛艦「まや」。
その直後、約千五百メートルの間隔を保ち、三基の巨大な四十六センチ三連装主砲塔を前後に構えて堂々たる引き波を立てる戦艦「大和」。
そしてその両側背を、歴戦の駆逐艦「雪風」と「初霜」が、機関の白煙を極限まで抑えながら、対潜哨戒の鋭い陣形を敷いて随伴していた。
艦隊の針路は北北東、速力は十四ノット。
三十ノットを超える最大速力を持つ護衛艦「まや」にとっても、公試二十七ノットを誇る大和にとっても、それはあまりにも遅い、這うような歩みであった。
だが、この経済巡航速度の厳守こそが、艦隊が呉へ辿り着くための絶対的な生命線であった。
「まや」の戦闘指揮所(CIC)。
薄暗い室内に立ち込める冷却ファンの排熱と電子機器の作動音の中、機関長が眉間に深い皺を刻み、艦長の高梨一佐へ最新の燃料消費帳票を差し出していた。
「艦長、主機用ガスタービン軽油の残量は、規定の二十六パーセントへ落ち込みました。現在、四基あるLM2500エンジンのうち三基を完全に停止し、一軸のみの低出力運転で電力を補機の非常用発電機から融通しています。もしここで敵機や潜水艦に捕捉され、最大戦速三十ノットの回避機動を行えば、燃料消費率は一挙に数倍へ跳ね上がり、屋久島沖に達する前に主機がガス欠でフレームアウトします」
「承知している」高梨は短く頷いた。
「急加速は厳禁だ。大和の重油缶も、坊ノ岬沖での全力航行と那覇沖への突入によって残存燃料は三分の一を切っている。互いに余計な波は立てられん。トカラ列島の無人島や暗礁の陰に船体を滑り込ませ、島嶼のレーダー反射に紛れながら北上を維持する」
高梨が視線を戻した大型戦術情報ディスプレイ(LSD)には、GPSを失った艦が慣性航法(INS)と海岸線レーダー地形照合によって自立的に算出したローカル海図が展開されていた。
広大な海原は、一見すると不気味なほど静まり返っていた。
だが、水面下には目に見えぬ死線が無数に張り巡らされていた。
米潜水艦群の哨戒線である。
米海軍太平洋艦隊潜水部隊(COMSUBPAC)は、沖縄戦支援と本土連絡路遮断のため、トカラ列島から大隅諸島、そして豊後水道に至る要衝海域に、ガトー級およびバラオ級の大型艦隊内火艇潜水艦を隙間なく配置していた。
これら米潜水艦は、浮上充電中に高精度のSJ水上レーダーを振り回し、潜航時にはアクティブ・パッシブ双方のソナーで獲物のスクリュー音を血眼になって待ち受けている。
「ソナー室より報告」
水測士官の硬い声が、内線インターホンからCICに響いた。
「OQQ-24バウ・ソナー、ならびに艦尾から繰り出したOQR-4曳航ソナー(TASS)のパッシブモードにて、音源を捕捉。方位〇一五、距離約一万八千ヤード。……水深百メートルの水温躍層の直下に、微弱な低周波キャビテーション音を探知しました。周期的な減速ギアの唸り音……米ガトー級潜水艦の推進音紋と合致」
高梨の背筋に冷たい緊張が走った。
「アクティブソナーの照射は厳禁だ。探信音を一発でも撃てば、相手にこちらの位置を正確に知らせることになる。相手の進行針路は」
「針路南南西、速力三ノット。トカラ列島中之島の東側水道を塞ぐように、潜望鏡深度で待ち伏せを行っている模様です」
「まや」のMk 41垂直発射システム(VLS)に残された対潜兵器は、Type 07垂直発射魚雷(VLA)がわずか二発。
貴重な長距離精密魚雷を、哨戒線の一隻に浪費することは絶対に許されなかった。
相手を撃沈することなく、その耳目をすり抜ける。
それが、補給なき孤軍に課せられた唯一の解答であった。
「時代間座標変換班、大和および後続駆逐艦へ専用VHF無線で針路変更諸元を送航せよ」
高梨が静かに命じた。
「変針、面舵十度。針路〇二五。中之島西側の浅礁境界ギリギリへ艦隊を誘導する。島から流れ出る強い潮流ノイズの背後に艦隊のスクリュー音を紛れ込ませ、敵潜のソナー死角を突く」
***
後方を追従する戦艦「大和」の第一艦橋。
海自から持ち込まれた堅牢な可搬型無線機から、低く抑制された通信士の音声が流れていた。
『各大和、各大和。前方右舷側水深八十メートルに敵潜伏潜水艦を探知。変針針路〇二五、速力十二ノットへ減速されたし。本艦の航跡を追従せよ』
第一艦橋の窓枠に手袋の手を置き、波間を見つめていた艦長・有賀幸作大佐が、深く息を吐き出した。
「……目に見えぬ水面下の伏兵まで、あの未来の船はすべて見透かしているのか」
傍らに立つ副長・森下耕作大佐が、双眼鏡を下ろして頷く。
「恐るべき観測眼です。旧来の我々であれば、九三式水中聴音機で敵潜の接近に気づいた時には、すでに魚雷の射点に踏み込まれていたはずです。敵の射程の外側でその存在を知り、戦わずして針路を曲げる……これほど無駄のない戦い方があるとは」
「無駄がないのではない」有賀は静かに首を横に振った。
「無駄をすれば、二度と動けなくなるのだ。彼らも我らも、一滴の油すら惜しまねば呉へ辿り着けん。……航海長、面舵一杯、針路〇二五! 機関の回転数を落とせ、煙突からの煤煙を一切出すな!」
大和の七万トンの巨躯が、音もなく舵を切り、中之島の黒々とした岩肌の影へとその姿を滑り込ませていった。
両翼を固める「雪風」と「初霜」もまた、スクリューの回転を極限まで滑らかに保ち、泡立ちを抑えながら島陰の潮流の乱反射の中へと身を潜める。
深海百メートルに潜む米潜水艦のソナー室では、水測手が首を傾げていたはずだった。
遠く水平線の彼方から微かに響きかけた重いタービン音が、突如として島嶼の激しい潮流ノイズと打ち寄せる波音の底へと呑み込まれ、完全に掻き消えてしまったのだから。
一本の魚雷も交わされることなく、一発の爆雷も落とされることなく、連合艦隊の残影は、米軍の対潜警戒線をその喉元でするりとすり抜けていった。
***
午後三時半。
艦隊はトカラ列島を抜け、薩南諸島東方の広大な外洋域へと差し掛かっていた。
見上げる空は、いまだ重い層雲に閉ざされている。
大和の第一艦橋で、森下副長は手帳に挟まれたタフブックの複写紙を見つめていた。
そこには、片倉司令と牛島中将が首里の地下で定めた「天二号作戦」の骨子、そして東京の大本営へ突きつけるべき「四発の原子爆弾」のデータが、手書きの数字で克明に写し取られていた。
「……有賀艦長」森下が低く呟いた。
「呉へ戻ったのち、大本営は我らの言葉を信じるでしょうか。『大和は敵を破って生還した、だから今すぐ講和を結べ』と告げて、あの血気盛んな参謀たちが素直に首を縦に振るか……」
有賀は軍帽の庇を指で押し上げ、灰色の海を見据えた。
その瞳には、迷いも恐れもなかった。
「信じさせるのではない。大和そのものが、信じざるを得ぬ現実なのだ」
有賀の声は、波の音を圧して低く響いた。
「三千人の将兵と共に海に沈むはずだったこの大和が、傷つきながらも生きて呉の土を踏む。そしてその傍らには、常識を超絶した未来の軍艦『まや』が並んでいる。これ以上の証拠がこの世のどこにある。大和の生還は、特攻精神論の勝利ではない。科学と知性を放棄した戦争の限界を、軍部自らに突きつける刃なのだ」
有賀は後ろを振り返った。
第一艦橋の装甲スリットの向こう、南の水平線には、もう沖縄の島影は見えなかった。
そこには、自らの退路を断って泥に沈み、米軍の大軍を一身に引きつけている「いずも」「むらさめ」、そして第32軍の将兵たちがいる。
彼らが命を削って稼ぎ出してくれる「時間」の重みが、大和の鉄の甲板を通じて、有賀の足元へずしりと伝わってくる。
「休むな、針路を保て」
有賀は静かに命じた。
「我らは生き残るために進む。この国の明日を、二度と原子の炎で焼き尽くさせはせん」
燃料計の目盛りが一筋ずつ下がりゆく冷酷な現実の中、二つの時代の生き残りたちは、孤高の影を波間に落としながら、運命の母港・呉へと向けて北上の航跡を刻み続けていた。




