第125章 沈底 — 水音だけが残る
艦長の短い号令を受け、司令室の声が一段と落ち着く。
「全機関、微速後進、出力5パーセント……停止まで」
機関士が復唱し、コンソールのレバーがわずかに後退する。主電動機の低い唸りが沈み込み、代わりに外殻を叩く水のざらついた音が耳に触れ始めた。
深度調整
操縦士が昇降舵を微調整しながら深度計をにらむ。
「深度指示+10メートル……+5……目標深度まで、あと2」
数値はゆっくりと安定し、やがて微動だにしなくなった。
音響班から報告が入る。
「海底地形、泥質、凹凸なし。着底可能です」
艦長は一度だけ頷く。海底の性質は重要だ。砂泥なら音が吸収されやすく、着底音も小さい。岩礁なら反響が残り、敵ソナーに拾われやすくなる。
着底
「後進停止……バラスト調整……着底用微調整開始」
艦体がわずかに沈む感覚とともに、船底が海底の泥を押し分ける鈍い感触が伝わった。
「着底確認」
操縦士の声が落ち着いて響く。
音響偽装
艦内の可動機器は最小限に抑えられた。冷却ポンプは静音モードに切り替えられ、艦内の換気も必要最小限に絞られる。
機関士は振動計を監視しながら報告する。
「船体振動レベル、背景海流ノイズ以下。外乱なし」
音響班では、パッシブソナーの感度が限界まで引き上げられる。周囲の水音がイヤホンに広がり、遠くの商船の低いエンジン音、海流が岩を舐める微かなざわめきまで拾い上げる。
潜伏態勢
艦内の照明はさらに落とされ、計器盤の琥珀色の光が艦内の唯一の明かりとなる。
乗員たちは声を抑え、動作も必要最小限に。誰もが「水中の影」になりきる。
艦長は静かに海図を指でなぞりながら、副長に言う。
「監視対象は新浦級だけではない。……今の情勢では、あの海峡を通るのは北の艦ばかりじゃない」
副長が目を細めた。
「南の艦も、あるいは——同盟国の艦も、ですか」
艦長は答えず、ただ耳を澄ませた。海底での勝負は、時間と忍耐と、最初の“音”を捕まえる感覚がすべてだ。