第二章 崩壊した高速道路、燃料という聖遺物
八王子ジャンクション――かつて“首都圏の大動脈”と呼ばれた場所は、今では交通工学の墓標みたいな顔をしている。路面は熱と凍結を繰り返して鱗のように割れ、継ぎ目からは草が噴き出し、ガードレールは曲がり切った肋骨みたいに空へ突き出していた。標識だけが無意味に残る。「物流の最適化」「分秒で動く供給網」。そういう言葉が、ここでは祈りの失敗作に聞こえる。文明は“届く”ことに依存しすぎた。届かなくなった瞬間、人間は想像以上に脆かった。 
私とカイが運んでいるのは、寺子屋の命脈を握るバイオ燃料の試料だった。アルコール系の粗い精製物に、少量の添加剤――旧世代の知恵を寄せ集めた“火”の瓶。これがあれば、発電の回数を一つ増やせる。医療の滅菌ができる。照明をつけられる。つまり、夜が少しだけ安全になる。だから狙われる。運び屋が運ぶのは物資ではない。夜の長さを短くする権利だ。 
サイドミラーの縁に、土煙が立ち上がった。排気の匂いが、風下から追いかけてくる。改造車――スカベンジャーか、ネオ・フェウダルの残党か、名前はどうでもいい。やることは一つ、奪う。バイクのエンジン音は“空腹”の合図になる。
「先生、来ました。三台……いや、四台です」
通信の向こうでカイの声が硬い。私は速度を落とさないまま、路面の割れ目と残骸の配置を読む。追走に勝つのは最高速じゃない。**“余裕”**だ。タイヤのグリップ、ブレーキの熱、燃料の残量、体力――余裕を削り切った者から先に死ぬ。
「焦るな。発進も加速も、雑にやると失速する。まずは確実に前へ出ろ。クラッチは短く繋ぐな、長く滑らせるんじゃない。**“つなぎ目を作る”**んだ」
カイはアクセルを煽りたくなるのを堪え、半クラの位置を探っているはずだった。単気筒の鼓動が乱れず続く。いい。回転が落ちてストンと黙ったら終わりだ。再始動は時間を食うし、その間に奪われる。
前方に、放置車両の山が見えた。錆びたワゴン、横倒しのトラック、崩れた高架の欠片。かつての事故渋滞が、そのまま化石になって道を塞いでいる。抜け道は一本、車体一台分の隙間。速度を殺して通るしかない。
「カイ、ブレーキは“握る”な。**“圧をかける”**んだ。最初はそっと、速度が落ちるほど握り込め。止まる直前が一番効く。ここでガツンと握ると、荷重が一気に前へ移ってフロントが沈み、操舵の自由を失う」
減速Gで体が前へ持っていかれる。そこで腕で突っ張ると、ハンドルを固定してしまう。路面の凹凸にフロントが追随できなくなる。転倒は一瞬で、そして終わりは長い。
「腕じゃない、腹と脚で支えろ。ニーグリップだ。腕は“動く余白”を残す」
カイの車体がわずかに揺れ、しかし立て直す。ブレーキのリリースが滑らかだ。握ったまま曲がらない。減速を終えてから旋回に入る。廃墟の路面では、それだけで生存率が跳ね上がる。 
隙間を抜けた瞬間、道路は緩い上りに変わる。ここで多くの若い運び屋がやる失敗がある。燃料を惜しんで高いギヤに入れ、回転を落として、必要なトルクを失う。追われている時にやると致命的だ。
カイがシフトアップしかけた気配を感じて、私は即座に止めた。
「その速度で五速に入れるな。低回転で粘るのは“省燃費”じゃない。**“無力化”**だ。回避の一瞬に駆動力が出ない。ここは三速ホールド。四千から五千を維持しろ。パワーバンドの入口をキープし続けるんだ」
「でも燃料が……」
「燃料を守るために、命を捨てるな。生きて戻れば、燃費は取り返せる。死んだらゼロだ」
坂の途中、追手が距離を詰めてくる。彼らの車体は軽い。雑な改造で上は回るが、制動が甘い。こちらは、理屈で差を作るしかない。
カーブが来る。瓦礫が散って、ラインが読みにくい。カイの単気筒がノッキング気味に唸った。低回転で開けすぎたのだ。
「全開にするな。キャブは負圧で動く。低回転で全開にしても混合気が崩れて加速が鈍る。四分の一→半開で“吸い込まれるのを待て”。回転が乗ったら一気に開けろ」
カイの右手が、見えない糸を引くように動く。エンジン音が一段、鋭くなる。燃焼が整った音だ。タイヤが路面を蹴り、車体がわずかに持ち上がる感覚――トラクションが立つ。直線の短い区間で一気に距離が伸びる。追手の排気音が、ほんの少し遠のいた。
しかし彼らは執拗だ。矢が飛ぶ。ボウガンの乾いた音。矢じりがアスファルトを叩き、火花が散った。カイが一瞬、上体を固める。
「見るな、進路だけ見ろ。恐怖は視線を奪う。視線を奪われた瞬間、バイクは“行った先”へ行く」
進路は視線で決まる。バイクは人の思考より先に、身体の微小な入力に従う。だから恐怖が支配すると、行きたくない方向へ導かれる。私は通信越しに、カイの呼吸を整えるための短い指示を続ける。
「息を吐け。肩を落とせ。肘を柔らかく。いまお前がやっているのは、戦闘じゃない。制御だ」
橋脚の下に、細い抜け道がある。崩れたコンクリ片と鉄筋の森。大型車は入れない。二輪なら通れるが、ハンドル幅ギリギリだ。ここを抜ければ追手は諦める。――ただし、ここで転べば終わる。
「カイ、進入前に速度を落としすぎるな。遅すぎるとふらつく。一定の微速で“安定の芯”を作れ。スロットルは閉じるな、ほんの少し開けたまま。クラッチで微調整だ」
カイが頷いたのが、声の間合いで分かった。狭隘部に入った瞬間、車体が左右にわずか揺れる。フロントが勝手に切れ込もうとする“倒れ込み”。そこで腕で押さえたらバランスは崩れる。カイは押さえない。スロットルで後輪に駆動力を与え、倒れ込みを受け流す。教練場で叩き込んだ動きだ。 
抜けた。
背後で、追手の一台が瓦礫に突っ込み、金属が裂ける音がした。続く排気音が減る。彼らはここを通れない。通れば壊れる。壊れれば略奪は続けられない。合理が彼らを止めたのだ。
寺子屋のゲートが見える。灯りは弱いが、確かに人の営みの光だった。カイはゲートをくぐる直前、息を吐き切ったように小さく笑った。
「先生……ただ速いだけじゃ、勝てないんですね」
私はマシンを止めずに答えた。
「速さは偶然で作れる。だが“生き残る速さ”は理屈でしか作れない。今日お前がやったのは、燃料を守る走りじゃない。文明の火種を守る走りだ。だから、次はお前が教える番だ」
ゲートの向こうで、次の訓練生たちがこちらを見ている。カイは燃料の試料を胸に抱え、泥と油にまみれた手で頷いた。その頷きが、次の時代の“教科書”になる。ロゴスは、走りながら継承される。




