第4部 第12章:不純物たちの航海
エウロパの地表が、遠ざかっていく。 かつて白銀の幾何学模様に覆われていた氷の月は、いまや地殻の随所から噴出した水蒸気と、砕け散った結晶の残骸が漂う、傷だらけの天体へと戻っていた。
アウグストゥスのブリッジには、以前のような完璧な照明も、カーターの洗練された音声案内もない。あるのは、剥き出しの配線から漏れる火花と、応急処置で塞がれた隔壁の軋み、そして三人の人間が吐き出す、重く、確かな呼吸の音だけだった。
「メイン・スラスター、三基中一基のみ稼働。……姿勢制御は、もはやジェネットの指先の感覚だけが頼りね」
エレンは、血と硝煙の匂いが染み付いた船長席に座り、ひび割れたメインスクリーンを見つめた。そこには、木星という名の巨大な深淵が、すべてを見届けた神のように沈黙を保っている。
「……上等よ。オートパイロットなんて死んだ魚の目をしてるようなもんだわ。自分のケツは自分の腕で運ぶ。それが最高に『生きてる』って感じでしょ?」
ジェネットは、感覚を失いかけた両腕を、MCUのナノマシンと物理的な添え木で補強し、操縦桿を握りしめていた。彼女のハプティクススーツは焼け焦げ、左肩の装甲は失われているが、その瞳には火星を離れたとき以上の鋭い光が宿っている。
「ランス……地球や火星の状況は、どう?」
エレンが問いかけると、ランスは視力をほぼ失った瞳を閉じながら、聴覚デバイスに神経を集中させた。彼の脳波は、いまや船内の損傷したコンピュータと不規則な共鳴を起こし、太陽系全体に広がる「ノイズ」を拾い上げていた。
「……混沌です。Ωという秩序を失った人々は、かつてないパニックの中にあります。ですが、エレン……。聞こえますか? 罵声、悲鳴、すすり泣き、そして……自分たちの名前を呼び合う声。これは、一〇万年前の彼らが結晶の中に閉じ込めたまま、決して取り出せなかった『命の音』そのものです」
ランスの口元に、微かな笑みが浮かんだ。 「私たちは、彼らに幸福を与えたのではありません。彼らから安楽という名の『死』を取り上げ、苦痛という名の『生』を返却したのです。……RJ(共和政日本)は崩壊し、これから長い冬が来るでしょう。ですが、少なくとも彼らは、自分の足でその荒野を歩き始めるはずです」
アウグストゥスは、木星の重力を利用してスイングバイを行い、太陽系の中心部へと針路を向けた。 だが、その進路は決して安全な帰還路ではない。Ωの残存システムが、あるいは目覚めた人々の中の過激な勢力が、この「歴史の反逆者たち」をどう迎えるかは未知数だった。
「エレン、見て」
ジェネットが指差した先。 木星の影から、一筋の閃光が走った。 それはエウロパの遺構が完全に崩壊した際、宇宙の深淵へと放たれた「一〇万年前の情報の種」の一部だった。
エレンは、その光を見つめながら、ハプティクススーツのグローブ越しに、懐の奥に隠した一つの小さな結晶体に触れた。それは、高槻が最期に残した、不純物コードとは別の「何か」だった。
「……終わったわけじゃないわね、ランス」
「ええ。Ωはシステムとしては死にましたが、一〇万年前の知的生命体が残した『進化への渇望』は、まだこの宇宙のどこかで脈動しています。そして……」
ランスは、空いた手で、自分の首筋にある端子に触れた。 「私の神経系に記録されたあの遺構の深層ログが、さっきから奇妙な計算を始めています。高槻が言っていた『真実の歴史』は、エウロパの下に沈んでいたものだけではないようです」
エレンは息を呑んだ。 彼女は知っていた。この太陽系が、あるいはこの宇宙そのものが、一〇万年前に蒔かれた巨大な実験場の一部であったかもしれないという可能性を。高槻を怪物に変えたあの力は、まだ銀河の深層で眠りについているだけに過ぎない。
「……次の目的地が決まったわね」
エレンは、ボロボロになったヘルメットをコンソールの上に置いた。 彼女の右頬には、あの戦いで負った深い傷跡が、消えない歴史として刻まれている。
「私たちは、人類を夢から引き摺り下ろした。なら、その後の地獄をどう生き抜くか、最後まで見届ける義務があるわ。……それに、一〇万年前の連中が何に怯えて肉体を捨てたのか、その『正体』を突き止めない限り、私たちの戦いは終わらない」
アウグストゥスは、太陽の光を背に受け、漆黒の荒野へと漕ぎ出した。 それは、帰還のための航海ではない。 一〇万年の沈黙を破り、人類が再び「肉体」という重荷を背負って、真の意味での宇宙へと踏み出すための、最初の反逆の航路だった。
窓の外では、無限の星々が、不純で不確かな生命たちの到来を待つように、静かに、しかし激しく瞬いている。
「行きなさい、ジェネット。……私たちの『現実』を、もっと遠くまで見せつけてやりましょう」
「了解……! 全速前進、地獄の果てまで付き合ってあげるわ!」
船体から最後の火花が散り、アウグストゥスは暗黒の深淵へと消えていった。 三人の鼓動は、冷たい鉄の箱の中で、新しい神話の最初の一行を刻み続けていた。
その先にあるのが、さらなる絶望か、あるいは真の夜明けか。 それはまだ、誰も知らない




