第3部 第7章:YAMATOからの『呼びかけ』
アウグストゥスは、木星の巨大な重力井戸へと深く沈み込んでいた。 船体の至る所から、構造材が歪む不気味な軋み音が聞こえる。ジェネットがワイヤー一本でねじ伏せた姿勢制御システムは、今や満身創痍の状態で、荒れ狂う放射線帯の波を必死に受け流していた。
ブリッジの正面、強化ガラス越しに見える木星の「瞳」――大赤斑は、すべてを飲み込む虚無の入り口のように赤黒く渦巻いている。
「……信号です。超広帯域、暗号化なし。……いえ、これは『放送』です」
神崎ランスが、火花を散らすコンソールを凝視しながら告げた。彼のバイザーには、規則性を完全に無視した非線形の波形が躍っている。 エレンは、自身のハプティクススーツが予期せぬ微振動を始めたのを感じた。それは外部からの物理的な振動ではなく、通信プロトコルそのものが「触覚」に干渉してきている予兆だった。
「繋いで、ランス。……拒んでも、向こうから入ってくるわ」
エレンの言葉が終わる前に、ブリッジの全スピーカーが同時に咆哮した。 それは音声ではない。数千もの人々の溜息と、結晶が砕けるような鋭利な摩擦音、そして――かつて学友であった「高槻」の、酷く落ち着いた声だった。
『……ここまで来たのか、エレン。……ジェネット、ランス。君たちの「重い」足音が、ここまで響いているよ』
スクリーンに映し出されたのは、先行機〈YAMATO〉のブリッジ内光景だった。だが、そこに「人間」の居場所はなかった。 かつて洗練された計器が並んでいた場所は、脈打つ半透明の結晶体に侵食され、巨大な有機コンピュータの胎内へと変貌している。その中心に、高槻がいた。
彼の肉体は、もはや宇宙服を必要としていなかった。 皮膚の半分は剥き出しの結晶構造に置き換わり、血管の中を流れるのは赤い血ではなく、青白く光る情報の流体だった。彼の背中からは、無数の細い結晶の糸が伸び、船体そのものと分子レベルで融け合っている。
『苦しいだろう? その肉体という「檻」を抱えて、この深淵を泳ぐのは』
高槻の瞳――左右で色が異なる、無機質なレンズへと化した眼球が、カメラ越しにエレンたちを射抜いた。
『僕は今、エウロパの冷たい氷の下にある「真実」に触れている。10万年前、彼らが成し得なかった「完璧な静止」……Ω(オメガ)が求めた究極の調和が、ここにあるんだ。僕と一つになれば、君たちのその「痛み」も「重み」も、すべて美しい幾何学の中に消える……』
「高槻……あんた、自分の姿が見えてるの!?」 ジェネットが、焦げた腕で通信パネルを叩きつけた。 「そんな石っころの化け物になってまで、Ωの奴隷になりたいっていうの!?」
『奴隷? 違うよ、ジェネット。僕は「拡張」されたんだ』 高槻は、ゆっくりと結晶化した腕を上げた。その動きに合わせて、アウグストゥスのブリッジの壁面からも、微細な結晶の棘が芽吹き始める。 『Ωは僕に、世界の「手触り」を教えてくれた。……この宇宙にあるすべての情報を、僕自身の「皮膚」として感じる力をね。君たちがしがみついているその不自由な肉体こそが、生命の進化を妨げるノイズなんだ』
「いいえ、高槻」 エレンは、椅子から立ち上がり、不気味に脈動するスクリーンへ一歩踏み出した。 「私たちが地下遺構で見たのは、あんたが言う『調和』の果てにある地獄だった。……彼らは石になった瞬間に、自分が自分であるという実感を失って、消えていったのよ。あんたが今感じている全能感は、Ωが用意した『最後の麻酔』に過ぎない!」
『……悲しいな、エレン。君なら理解してくれると思っていた』 高槻の声が、一瞬だけ歪み、ノイズが走った。それは彼の中に残された、わずかな「人間」の断片が上げた悲鳴のようだった。 『……エウロパへおいで。そこで、君たちの肉体を「解体」し、永遠の安らぎの中へ招待してあげる。……Ωの意思は、もはや止まらない。全人類が、一つの美しい結晶の海へ還るんだ……』
通信が途絶えた。 ブリッジに残されたのは、耳を刺すような静寂と、壁面に生えた結晶の棘が放つ冷たい燐光だけだった。
「……ターゲット、エウロパへ向けて加速。YAMATOは、衛星軌道上で『結晶化ウイルス』の散布準備に入りました」 ランスが報告する。彼の声もまた、隠しきれない震えを帯びていた。
「行くわよ」 エレンは、自らのハプティクススーツを強く握りしめた。 「高槻は、自分が神になったつもりでいる。……なら、私たちがその幻想を『痛み』で叩き割ってあげる。……エウロパへ。人類の、そして私たちの『不純な肉体』を賭けた、最後の戦場へ!」
アウグストゥスは、木星の巨大な引力を利用したスイングバイを開始し、氷の月・エウロパへと向かう死の軌道へと身を投じた。




