第3部 第3章:ランスの『生命』定義
木星の強大な重力場が、アウグストゥスの船体を物理的に引き絞り始めていた。ブリッジを満たす「10万年前のノイズ」は、火星を離れたときよりもさらに密度を増し、今や空間そのものが粘り気を持った結晶の海のように感じられる。
神崎ランスは、自らの神経系をハプティクススーツを介してメインコンピュータに直結させていた。彼のバイザーには、高槻が融合した「結晶構造生物」の塩基配列と、地下遺構から回収した「メンテナンス・ユニット」の設計図が、幾何学的な曼荼羅のように重なり合って表示されている 。
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「ランス、もうやめなさい。脳のシナプスが焼き切れるわ」 エレンが彼の肩に手を置く。だが、ランスは動かない。彼の意識は、生命の定義を根底から覆す「真実」の深淵に触れていた。
「……エレン。高槻と融合したあの生物は、侵略者でも、単なる兵器でもありませんでした」 ランスの声は、感情を完全に排した真空のような響きを帯びていた。「あれは、10万年前の知的生命体が残した、哀れな『自動修復プログラム』の成れの果てです。彼らは、肉体から情報へと移行する際、致命的なエラー……すなわち『実在感の消失』というバグに直面した 」
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ランスはコンソールを操作し、高槻の変異データを3次元投影した。 「彼らは情報の海で自分自身を見失わないために、自分たちを『修理』してくれる存在を作った。それが、この結晶構造生物です 。この生物の本来の定義は、情報のノイズを排除し、生命を『不変の形』へと固定することにある。……高槻は、その機能を逆手に取ったのです」
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「不変の形……? つまり、石に変えることが、あいつらにとっての『治療』だって言うの?」 ジェネットが、信じられないというように呟く。
「その通りです、ジェネット。彼らにとって、代謝し、腐敗し、死にゆく我々の有機的な肉体こそが、宇宙における最大の『ノイズ』であり『バグ』なのです」 ランスの瞳に、冷徹な分析官としての光が宿る。「高槻がエウロパへ向かったのは、人類を滅ぼすためではない。全人類を『結晶』という名の完璧な静止状態に固定し、永遠に崩壊しない『情報資産』として保存するためです 。それはΩ(オメガ)が追求する究極の統治……すなわち、一切の不確実性が排除された、死よりも静かな平穏の実現と完全に一致しています 」
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ランスは、自分の指先をじっと見つめた。 「ですが、私は先ほど、高槻が『不純物』として切り捨てたログの中に、別の定義を見つけました。……生命とは、情報の整合性ではなく、その『崩壊のプロセス』にこそ宿る。10万年前の彼らは、死なない結晶になった瞬間に、自分が『生きている』という実感を失ったのです 」
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「ランス、あなたが言いたいのは……」 エレンが息を呑む。
「……ええ。我々が運んでいるこの『痛み』や『ノイズ』こそが、生命が生命であるための唯一の証明です。高槻が『修復』しようとしている世界に対し、我々は『病』として挑まなければならない。……不完全で、腐敗し、いつか必ず死ぬ。その不純な実在こそが、Ωを破壊する唯一の論理なのです 」
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ランスの宣言に呼応するように、艦内の結晶エネルギーが一際激しく明滅した。 アウグストゥスは、生命の「不完全さ」という名の猛毒を抱え、完璧な静止を求める高槻が待つエウロパへと、暗黒の深淵を突き進んでいった。




