第108章 意識変数
【マンハッタン・Ω計画拠点】
ニューヨーク州ハドソン川沿いの、かつては造船所だった煉瓦の建物。
内部は改修され、壁一面のスクリーンと量子演算ノードが埋め込まれた制御室が広がっていた。
Ω計画の主任理論家、グレイス・コール博士は、会議卓に投影された三次元モデルを指差した。
「……時空転移の事例をすべて解析した結果、転移発生時には局所的な時空計量テンソルの変化と、広域に拡散する重力波的パルスが同時に観測されています」
画面には、大和・そうりゅう・ロナルド・レーガンの交錯時に記録されたデータが重ねられている。
縦軸は時空曲率変動、横軸は時間。鋭いピークが交差点で跳ね上がっていた。
「だが、問題はこれです」
別のグラフが現れる。
それは、現場にいた乗員の脳波データ(偶然記録されていた睡眠実験データや医療装置ログ)と、時空曲率のピークを重ね合わせたものだった。
——両者は、完全に同期していた。
「偶然じゃない?」と物理班のポスドクが眉をひそめる。
「統計的に偶然の確率は10⁻⁶以下です」
神経科学チームのラファエル・ホフマン准教授が口を挟む。
「脳のシータ波とガンマ波の位相結合パターンが、曲率変動の周波数成分と一致していました。これは“外部刺激に対する感応”の領域を超えています。むしろ——場と意識が同一方程式で記述されうる可能性があります」
コール博士がホワイトボードに式を書き始める。
それは修正ディラック方程式とカーニハン=トンプソン型の非線形項を組み合わせたもので、右辺にψ(意識状態関数)が現れていた。
「場の方程式に、人間の意識変数が入ってくる……」と誰かが呟く。
「違うわ。時空構造の位相が変化するとき、量子的コヒーレンスを保った生体系は、その変化の一部として組み込まれるの。つまり転移現象は物理現象であると同時に、生体意識現象でもある」
ホフマンが補足する。
「逆に言えば、“誰がそこにいたか”によって、転移の結果は変わりうる。これは軍事的にも、計画全体にも致命的な意味を持ちます」
沈黙が室内を包む。
数秒後、コール博士が低く言った。
「——時空は物理的な器じゃない。観測する者ごとに、形を変える鏡なのよ」
誰も笑わなかった。
それはSFではなく、数式が導き出した結論だったからだ。