第151章 第6章:森宮さんという「合理的」なバトン
私の前に、一人の男が現れました。
名前は早瀬くんといいます。高校時代の同級生で、当時は泉ヶ原さんの家で私が弾いていたピアノの音を、「お前のピアノは、よく磨かれた石鹸の匂いがする」と評した、独特な感性の持ち主です。
彼は現在、ピアニストの卵として、鍵盤の上で自分の指を踊らせることで生計を立てようともがいています。そんな彼が、ある日突然、ファミレス『ジョナサン(仮)』で休憩中の私に向かって言ったのです。
「野本さん。僕と一緒に、新しいバトンを走ってみないか」
私は、手元にあった使い古しのハンディを眺めました。
「早瀬くん。それは、プロポーズという理解でよろしいでしょうか。それとも、新しいサークルへの勧誘ですか?」
「プロポーズだよ。君の人生のバトンが今、森宮さんの手にあるなら、次は僕がそれを受け取りたいんだ」
私はその夜、森宮さんの待つ家へ帰り、食卓に並んだ「完璧な黄金比の肉じゃが」を前に、淡々とその事実を報告しました。
「森宮さん。早瀬くんから、バトンを受け取りたいと言われました」
森宮さんは、箸を止め、眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げました。その仕草は、彼が重大なシステムエラーに直面した時の合図です。
「早瀬くん……。あの、ピアノを弾くだけで、将来の厚生年金の見通しが立っていないという彼のことかな?」
「はい。でも、彼のピアノは、森宮さんのポトフと同じくらい、誠実な音がします」
森宮さんは立ち上がり、部屋の隅にあるホワイトボード(我が家の献立と栄養管理表が書かれている)に向き直りました。
「野本さん。結婚とは、バトンパスであると同時に、法的な債権債務関係の発生だ。僕が梨花さんから君を預かった時、僕は『彼女を不幸にしない』という無言の契約を交わした。早瀬くんにその契約を承継する能力があるか、僕は厳密に査定しなければならない」
翌日、私は「暇つぶしサークル」の部室で、この事態を小宮部長と橋本副部長に相談しました。
「あら、ついに『最終区』の走者が現れたわけね」
小宮部長は、巨大なキャンバスに灰色の絵の具を塗りたくりながら、愉快そうに笑いました。
「野本・ザ・ブライド。あなたの人生という展覧会も、いよいよクライマックスね。でもね、森宮さんという『完璧なキュレーター』が、簡単に展示品を手放すとは思えないわ」
橋本副部長が、ノートパソコンの画面を私に見せました。そこには、なぜか早瀬くんの出身校やコンクール入賞歴、さらには彼が住んでいるアパートの家賃相場までがグラフ化されていました。
「野本さん。僕が森宮さんの立場なら、早瀬くんの『生存戦略』に疑問を呈さざるを得ない。ピアニストという職種は、標準偏差から大きく外れたハイリスク・ハイリターンな生き方だ。森宮さんのような安定志向のランナーにとって、彼はあまりに足取りが不安定すぎる」
「橋本さん。早瀬くんの足取りは、確かに不安定かもしれません。でも、彼は私が苗字を変えるたびに変わる眼鏡の度数に、唯一気づいてくれた人なのです」
私がそう言うと、部室に沈黙が流れました。
「……いいこと言うじゃない、野本」
いつの間にか部室に入り込んでいた重子が、鼻をすすりながら言いました。
「あんたって、いつも感情がないロボットみたいだけど、たまにそういう核心を突くわよね。度数に気づいてくれる男なんて、山田には一生かかっても無理よ」
「おい、俺を比較対象に出すなよ」
山田が隣で不満げに声を上げましたが、重子は無視して続けました。
「でもさ、森宮さんはどうするの? あの人、あんたが嫁に行ったら、明日から灰汁を取る対象がいなくなって、干からびちゃうんじゃない?」
私は、昨夜の森宮さんの後ろ姿を思い出しました。
彼は深夜まで、早瀬くんとの「共同生活シミュレーション」をExcelで作成していました。食費、光熱費、さらにはピアノの調律費用までを算出し、どうすれば二人が破綻せずに生きていけるかを、徹夜で計算していたのです。
「森宮さんは、干からびたりはしません」
私は静かに言いました。
「彼は、私というバトンを『完走させること』に、自分の存在意義を見出しています。もし早瀬くんが不適格だと判断すれば、彼は全力で阻止するでしょう。でも、もし早瀬くんが本物だと確信すれば……彼は、世界で一番晴れやかな顔で、私の手を離すはずです」
その数日後、森宮さんは早瀬くんを我が家へ招きました。
食卓には、森宮さんが三日間かけて仕込んだ「究極のビーフシチュー」が並んでいました。
早瀬くんは、緊張で顔を青くしながらも、そのシチューを一口食べ、真っ直ぐに森宮さんの目を見て言いました。
「森宮さん。僕には、野本さんを高級なレストランに連れて行く経済力は、今のところありません。でも、彼女がピアノを弾きたくなった時、いつでも僕の背中で鍵盤の練習ができるくらい、広い心だけは持っています」
森宮さんは、シチューの入った皿を見つめたまま、一分ほど沈黙しました。
そして、おむろに眼鏡を外し、布で丁寧に拭き始めました。
「早瀬くん。君の言っていることは、論理的ではない。非常に抽象的で、将来予測としての精度は限りなく低い」
早瀬くんが肩を落とそうとした瞬間、森宮さんは続けました。
「しかし……シチューの灰汁が全く出ていないことに気づき、『この澄んだ味は、作る人の誠実さの表れですね』と言った君の感性だけは、評価に値する。梨花さんが僕を選んだ時も、きっとこんなデタラメな理由だったんだろう」
森宮さんは、私を見ました。
「野本さん。君の次の眼鏡は、きっと僕が選ぶものよりも、ずっと自由で、少しだけピントのズレた、楽しいものになるだろうね」
私は、紺色の眼鏡の奥で、視界が少しだけ潤むのを感じました。
森宮さんは、静かに立ち上がり、キッチンへ戻っていきました。「デザートのリンゴは、酸化を防ぐために今から剥くよ」という、いつも通りの言葉を残して。
「……というわけで、部長。私は結婚することになりました」
翌日、部室で報告すると、小宮部長は満足そうに頷きました。
「おめでとう、野本・ザ・エンドロール。でも、忘れないで。結婚はゴールのテープじゃないわ。それは、新しい混合リレーの始まりよ。今度はあなたが、誰かにバトンを渡す番なの」
橋本副部長が、お祝いだと言って、自作の「新生活における節税対策マニュアル」を差し出してくれました。
「野本さん。これは僕からの餞別だ。早瀬くんの不安定な収入を、これでカバーしたまえ」
重子と山田は、なぜか二人で「お祝いにファミレスで一番高いステーキを奢る」と言い出し、私をジョナサンへと連行していきました。
アルバイト先で、富山さんと亀山さんにも報告すると、亀山さんは私のエプロンの紐を力強く結び直してくれました。
「野本さん、あんたの人生は、たくさんの親たちが繋いできた一本の糸よ。それを早瀬くんと一緒に、もっと太い綱にしていきなさいな。梨花さんも、きっとどこかで派手な乾杯をしてるわよ」
私は、新しい眼鏡――早瀬くんが選んでくれた、少し細身で明るい茶色のフレーム――に指をかけました。
森宮さんから渡されるバトンは、驚くほど重く、そして信じられないほど温かい。
私はそれを両手でしっかりと握りしめ、次の区間へと走り出す準備を整えました。
(第6章・完)




