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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン26

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第149章 第4章:ピアノと豪邸と、森宮さんの「履歴書」


 泉ヶ原さんの豪邸での生活は、まるで深海で暮らしているような静寂に満ちていました。

 高い天井、磨き上げられた大理石の床、そして私の部屋に鎮座する、黒光りしたグランドピアノ。私は毎日、その鍵盤を叩きながら、「泉ヶ原」という苗字が自分の皮膚に馴染んでいくのを待っていました。

 しかし、梨花さんという人は、皮膚が馴染む前に、その皮膚ごと脱ぎ捨ててしまうような人でした。

「野本――いえ、当時の泉ヶ原さん。あなた、今の生活に満足している?」

 ある日の午後、梨花さんはクローゼットからこれでもかというほど派手な毛皮のコートを取り出しながら、私に尋ねました。

「満足、という言葉の定義によりますが。少なくとも、飢え死にする心配と、眼鏡が物理的に壊れる心配はありません」

「そう。でもね、それだけじゃ足りないのよ。あなたには今、静寂ではなく、もっと『騒がしい安心』が必要なの」

 梨花さんの言う「騒がしい安心」の正体が判明したのは、それから一週間後のことでした。彼女は泉ヶ原さんに「ちょっと自分を探してくる」という、探偵でも雇わなければ見つかりそうにない理由で別れを告げ、私を連れて小さなアパートへ引っ越したのです。

 そこで待っていたのが、森宮さんでした。

「……で、その森宮さんっていうのが、今の『野本』の由来なわけね」

 大学の「暇つぶしサークル」の部室で、小宮部長がキャンバスの裏にマジックで大きな相関図を書き殴りながら言いました。

「ええ。森宮さんは、梨花さんの高校時代の同級生だったそうです。梨花さんは、同窓会の名簿を片っ端からチェックし、最も『父親という重労働を、趣味のように楽しめそうな男』をオーディションした。その合格者が、森宮さんでした」

「オーディションって……結婚を何だと思ってるんだ、その人は」

 橋本副部長が、手元の計算機で何やら数値を弾き出しました。

「しかし野本さん、君の話を総合すると、森宮さんは東大卒の超一流企業勤務だろう? 梨花さんにとっては、これ以上ない『安定資産』へのバトンタッチだ。泉ヶ原さんのようなストック(資産)型から、森宮さんのようなフロー(収入)型への移行。ポートフォリオとしては完璧だ」

「橋本さん、森宮さんを投資信託みたいに言わないでください」

 私は、初めて森宮さんに会った日のことを思い出しました。

 森宮さんは、梨花さんと私が引っ越してきたアパートの玄関で、エプロン姿で立っていました。彼は私を見るなり、挨拶よりも先にこう言ったのです。

「初めまして、今日から君の父親になる森宮です。君の現在の身長と体重、および嫌いな食べ物を教えてもらえるかな? それによって、今後の献立の栄養バランスを最適化する必要があるから」

 私はその時、自分の紺色の眼鏡をかけ直しました。この男は、これまでの父たちとは決定的に何かが違う。水戸さんのような無頓着さも、泉ヶ原さんのような超越した静けさもない。そこにあるのは、圧倒的な「当事者意識」でした。

「森宮さんは、私を『育てる』ということを、一つの壮大なプロジェクトとして捉えていました」

 私は部室のメンバーに語りかけます。

「彼は初日から、私のために『父親としての履歴書』を作成してきました。そこには、彼の年収、健康診断の結果、将来の昇進の見込み、そして『もし自分が先に死んだ場合の、野本さんへの信託譲渡計画』までが、Excelの表のように整然と記されていました」

「……怖いわ。愛が重すぎて、もはや構造物ね」

 小宮部長が筆を止め、呆れたように笑いました。

「でも、梨花さんはそれを見て笑ったんでしょう?」

「はい。梨花さんは『これよ! この粘り強さこそが、私の娘には必要なの!』と絶賛していました。そして梨花さんは、私を森宮さんに預けると、まるで自分の役割をすべて終えたかのように、少しずつ家を空ける時間が長くなっていったのです」

 その頃の私は、森宮さんの作る「理論武装された食事」に戸惑っていました。

 朝は決まった時間に起され、計算されたカロリーの朝食を食べ、学校へ行く。森宮さんは、私のテストの結果よりも、私の「顔色」と「便通」を重視しました。

「野本さん、今日は少し目が赤いね。昨夜、梨花さんの不在を寂しがって泣いたかな? 涙の成分にはストレスを排出する効果があるけれど、塩分が不足するから、今日の夕飯は少し濃いめの味噌汁にしよう」

 森宮さんは大真面目にそんなことを言うのです。

 ある日、私は彼に尋ねました。

「森宮さんは、どうして血の繋がらない私に、そこまで一生懸命になれるのですか? 私が立派に育っても、あなたには何のメリットもないはずです」

 森宮さんは、手に持っていたお玉を止め、眼鏡の奥の目を細めました。

「メリット? そんなものはないよ、野本さん。ただ、僕は梨花さんからバトンを受け取ってしまったんだ。駅伝の走者が、前の走者がどんな思いで走ってきたかを知れば、足を止めるわけにはいかないだろう? 僕は、君というバトンを、世界で一番高い場所まで運びたいだけなんだ」

 その時、私は初めて気づきました。

 梨花さんがなぜ、あんなに自由奔放に振る舞いながら、私を親から親へと渡していったのか。

 彼女は、自分が持てる愛情の限界を知っていたのかもしれません。自分一人では支えきれないほどの「私の未来」を、最適で最強の「次の走者」に託すことで、私の人生をリレー形式で完走させようとしていた。

 それは、世間一般の「母親」という言葉からはみ出した、あまりにも身勝手で、あまりにも献身的な、歪んだ愛の形でした。

「……で、その完璧なランナーである森宮さんを置いて、梨花さんは消えたわけね」

 重子が、いつの間にか部室のソファに座って、私の話に聞き入っていました。

「消えた、というよりは、バトンを繋ぎ終えてコースアウトした、という感じでしょうか」

 梨花さんが家を出た日、彼女が残したのは「旅に出てきます」という短いメモと、私に宛てた、少しだけ油の染みたカツサンドの包み紙でした。

 森宮さんは、そのメモを読み終えると、一度だけ深く溜息をつき、それから私に向かって言いました。

「よし、野本さん。梨花さんがいない分、これからは僕が二人分の灰汁あくを取ることにするよ。夕飯は、君の好きなものを食べよう。ただし、ビタミンB1が不足しているから、豚肉料理に限定させてもらうけどね」

 私は、森宮さんが選んでくれた紺色の眼鏡をかけ直し、鏡を見ました。

 そこに映っているのは、もう「泉ヶ原」の静かな少女ではありませんでした。

 理論と灰汁取りと、わずかなカツサンドの記憶を抱えた、新しい「野本」の顔でした。

「小宮部長。私の人生は、まだ第4章を終えたばかりのようです」

 私は立ち上がり、鞄を肩にかけました。

「森宮さんが、今日の夕飯は『完璧な温度管理で仕上げたローストビーフ』だと言っていました。彼のことですから、中心温度を0.1度単位で計測しているはずです。遅れると、彼の理論が崩壊してしまいます」

「行ってきなさい、野本・ザ・センターテンプ(中心温度)」

 小宮部長がキャンバスに、鮮やかな、血のように赤い色を一筋引きました。

「あなたの人生の色彩は、これからもっともっと、複雑に混ざり合っていくわよ」

 私は部室を後にしました。

 キャンパスを歩く私の足取りは、泉ヶ原時代よりもずっと軽く、そして森宮さんのように、少しだけ理屈っぽく、確実なリズムを刻んでいました。

(第4章・完)


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