第144章 最終章:私たちは、どこまでも自由だ
野方署の取調室を包囲していた雨は、夜明けとともにその勢いを弱め、街は白磁のような冷たい光に照らされ始めていた。
スズキタメゴロウは、もはや笑ってはいなかった。彼は椅子の背もたれに深く体を預け、煙のように消えていく闇を名残惜しそうに眺めている。
「……終わったね、類輝さん」
スズキの声は、これまでの不快な粘り気が嘘のように、乾いて透き通っていた。
「あんたが放った『真実』という名の爆弾は、見事にこの国を更地にしたよ。今頃、ネットもテレビも大騒ぎだ。正義の味方だったはずの警察が、幼い少女を地獄へ突き戻していた……。みんな、自分が信じていた地面が腐っていたことを知って、吐き気を催しているだろうね」
類輝は無言で立ち上がり、窓の外を見つめた。彼の表情からは一切の感情が読み取れないが、その瞳には、もはや組織の論理に縛られることのない、透明な覚悟が宿っていた。
「……私がしたのは、事実を提示しただけだ。それを爆弾に変えたのは、この社会が抱えていた歪みそのものだよ、スズキ」
そこへ、扉が静かに開いた。入ってきたのは、泥と雨にまみれ、精根尽き果てた様子の東堂だった。その後ろには、震える肩を抱きしめるようにして歩く未來が続いている。
「……逃がしたのか、東堂」
類輝が問うと、東堂は力なく、しかしどこか晴れ晴れとした顔で頷いた。
「ああ。……あいつらは、もう俺たちの手が届かない場所へ行った。いや、最初から届いちゃいなかったんだ。俺たちは十五年前からずっと、あの子たちの魂を、法の網で掬い上げられると勘違いしていただけだった」
未來が、堪えきれずに声を漏らした。
「……更紗さんは、最後、笑っていたんです。文さんの隣で、本当に静かに。警察に囲まれて、明日をも知れない状況なのに。私、あんなに綺麗な笑顔、見たことがありません。……私たちのやってきた『正義』って、一体何だったんですか?」
スズキがケタケタと、短く笑った。
「お巡りさん、それが答えだよ。あんたたちが守ろうとしたのは『平穏』であって、『幸福』じゃなかったんだ。あの子たちはね、自分たちを定義する言葉を全部捨てたんだよ。被害者、加害者、恋人、家族、ロリコン、誘拐犯……そんなゴミみたいなレッテルを全部雨に流して、ただの『個』として向き合った。それは、この管理社会に対する最大の反逆であり、唯一の救済なんだ」
スズキは立ち上がり、ゆっくりと取調室の隅へと歩いた。
「いいかい、類輝さん。月は太陽がいなければ輝けないと言うが、あれは嘘だ。月は、太陽の光を反射して自分を偽っているから美しいんじゃない。誰にも見えない裏側で、冷たいクレーターだらけの自分を抱きしめて、ただそこに在るから尊いんだ。……流浪の月は、もう沈まない。あの子たちが、自分たちの名前を捨てて、ただの『二人』でいる限りね」
一方、朝靄の立ち込める多摩川の堤防。
更紗と文は、古びた軽自動車の中で、昇りゆく朝日を眺めていた。
車内には、文が淹れた珈琲の香りが微かに漂っている。昨日までの喧騒も、亮の暴力的な執着も、警察の包囲網も、今は遠い世界の出来事のように感じられた。
「……文」
更紗が静かに名前を呼ぶと、文は穏やかな、しかしどこか物悲しい微笑みを返した。
「更紗。……怖くない?」
「何が?」
「これから、どこへ行っても僕たちは歓迎されない。住所も、名前も、過去も、全部隠して、日陰を歩き続けなきゃいけない。君が望んでいた『普通の幸せ』は、もう二度と手に入らないんだよ」
更紗は、文の手を取った。その手は少し冷たかったが、これまでの人生で触れてきたどんな温もりよりも、彼女の心を安らげた。
「……私、もう『普通』なんていらない。亮くんがくれた正義も、伯母さんたちがくれた同情も、全部、私を殺すための毒だった。……文の隣で、誰からも理解されずに、ただ流れていく。それが私の、一番欲しかった自由なの」
文は更紗の頭を優しく撫でた。彼の身体的な「欠落」は、この社会では異常とされる。しかし、更紗にとっては、その欠落こそが、彼女を性的対象として、あるいは被害者として扱わない、唯一の聖域だった。二人の間にあるのは、既存のどの言葉でも定義できない「魂の合致」だ。それは、もしかしたら「愛」という言葉さえも不純に感じられるほど、研ぎ澄まされた関係だった。
「……私たちは、どこまでも自由だね」
文が呟く。
「うん。……どこまでも自由だよ」
二人の乗った車は、朝日の中へとゆっくりと走り出した。
彼らが行く先には、天国も地獄もない。ただ、誰も知らない二人だけの真実が、流浪の月のように、夜空の片隅で静かに輝き続けるだけだ。
野方署の取調室。
類輝は、スズキの横を通り過ぎ、扉に手をかけた。
「……どこへ行く、類輝」
東堂の問いに、類輝は振り返らずに答えた。
「警察という職を捨ててきます。……私も、自分の目で真実を見に行かなければならない。スズキの言う『風景の一部』ではなく、自らの足で歩く一人の人間として」
未來は、類輝の背中を、そして沈黙する東堂を交互に見た。彼女もまた、自分の中に芽生えた新しい正義の形を探し始めていた。
スズキタメゴロウは、誰もいなくなった取調室で、最後の一切れのキャンディを口に放り込んだ。
「……あーあ。面白かった。さて、次の爆弾は、どこに隠そうかな」
スズキは、監視カメラに向かって、最後の一瞥をくれた。その瞳は、もはや狂気ではなく、深い孤独と、それゆえの自由を湛えていた。
東京の空は、いつの間にか完全に晴れ渡っていた。
だが、その青空の下で、かつて「被害者」と呼ばれた少女と「加害者」と呼ばれた青年は、社会という檻を抜け出し、名もなき流浪の旅人として、永遠の自由を手に入れていた。
流浪の月は、昇り、そして沈むことはない。
それは、真実を知った者の心の中にだけ、永遠に架かり続ける道標なのだ。
【完】




