第142章 第8章:トロッコ問題の終焉
野方署の取調室は、今や一つの劇場と化していた。舞台の中央に鎮座するのは、社会の底溜まりから這い出してきた怪物、スズキタメゴロウ。彼は脂ぎった指先で、見えないタクトを振るうように空をなぞり、類輝を挑発し続けていた。
「類輝さん、あんたみたいな秀才なら知ってるだろ? 『トロッコ問題』ってやつをさ」
スズキは前かがみになり、取調室の冷たい机にその不潔な顔を近づけた。
「暴走するトロッコの先に、五人の人間が縛られている。あんたの手元にはレバーがある。それを引けば、トロッコは別の線路へ移り、五人は助かるが、その先には一人の人間が縛られている。……さあ、レバーを引くかい? それとも何もしないで五人を殺すかい?」
類輝は微動だにせず、スズキの瞳の奥にある濁りを見つめ返した。
「倫理学の古典的な思考実験だ。だが、現実はそれほど単純な二択ではない」
「いいや、今夜は単純だよ!」
スズキは机を激しく叩き、立ち上がった。
「五人の人間――それは『世間の常識』であり、『警察のメンツ』であり、『中瀬亮のプライド』であり、『清沢管理官の出世』だ。そして、たった一人の犠牲者。それは更紗ちゃんと文の、名付けようのない関係だ。……レバーを引けば、つまり彼らを『保護』して再び引き離せば、世間の秩序という五人は救われる。でも、あの子たちの魂は粉々に砕け散る。さあ、警察官! あんたならどうする?」
類輝の脳内で、スズキの言葉が鋭い刃となって思考を切り裂いていく。スズキは、警察が掲げる「正義」や「平等」がいかに建前であるかを暴き立てようとしているのだ。
「類輝さん、あんたはさっき『指名手配を解除しろ』と言ったね。それはレバーを引かないという選択だ。五人の『正しい社会の住人』を敵に回してでも、たった一人の『異物の真実』を守ろうとした。……でもね、組織という名のトロッコは、もうあんたの手を離れて加速しているんだよ」
雨に濡れた世田谷の路地裏。東堂は、スズキが予言した文のカフェ「calm」の前に立っていた。
店の窓からは、温かみのあるオレンジ色の光が漏れている。だが、その静寂は、遠くから聞こえてくるサイレンの音によって刻一刻と削り取られていた。清沢が放った緊急配備の網が、確実にこの場所を包囲しつつある。
東堂は、十五年前の自分の姿を思い出していた。あの時、自分は迷わずレバーを引いた。五人を救うために一人を犠牲にする、それが「正義」だと信じて疑わなかった。だが、その結果はどうだ。更紗は十五年もの間、周囲からの「善意の暴力」に晒され、「かわいそうな被害者」というレッテルを貼られて擬態するように生きてきたのだ。
店の扉が開き、一人の女性が出てきた。更紗だった。
彼女の瞳には、以前のような「諦め」の色はない。そこにあるのは、すべてを捨ててでも守り抜こうとする、静かな、しかし烈火のような「孤高の覚悟」だった。
「……東堂さん。また、私を連れ戻しに来たんですか?」
更紗の声は雨音に混じって、驚くほど透明に響いた。
「更紗……。俺は……」
東堂は言葉に詰まった。警察官としての自分は、彼女を保護し、亮という「正当な婚約者」の元へ戻すべきだと叫んでいる。だが、一人の人間としての自分は、彼女の隣に立つ文の、あまりにも静かな佇まいに気圧されていた。
文は、更紗の少し後ろに立ち、ただ彼女を見守っていた。彼は世間から「ロリコンの誘拐犯」という最悪の烙印を押されているが、その瞳には性的な搾取の気配など微塵もない。そこにあるのは、自分と同じ「居場所のない孤独」を抱えた者への、祈りに似た共鳴だけだった。
「私たちは、もうどこにも戻りません」
更紗は、文の手をそっと握った。
「恋人でも、夫婦でも、名前なんて何でもいいんです。ただ、この人と一緒にいることだけが、私の真実なんです」
その時、路地の両側から複数の車両が急停止する音が響き、清沢率いる捜査員たちが銃器を構えて現れた。
「佐伯文、動くな! 家内更紗から離れろ!」
清沢の拡声器を通した声が、夜の静寂を暴力的に引き裂いた。
取調室。スズキは、壁の時計を指差した。
「起爆したね。……類輝さん。あんたの言った『提案』は、清沢さんというシステムの壁に跳ね返された。今、現場では、五人の正義が一人を圧殺しようとしている。……これがあんたたちの守りたかった世界か?」
類輝は、静かに立ち上がった。彼の瞳には、もはや観察者としての冷徹さではなく、一つの確固たる意志が宿っていた。
「スズキ。君は『トロッコ問題』の結果を楽しみにしているようだが、一つ忘れている。……トロッコを止める方法は、レバーを引くことだけではない」
「ほう? 他に何があるって言うんだい」
「自らが線路に飛び込み、その肉体をもってトロッコを脱線させることだ」
類輝は、清沢が接続している監視モニターを真っ向から見据えた。
「管理官、聞こえていますね。私は今から、スズキタメゴロウが語った『十五年前の事件の全貌』を、マスコミ各社に一斉に送信します。警察が意図的に黙殺した、更紗への性的虐待の事実。文が抱えていた身体的秘密。そして、今夜我々が中瀬亮の暴力を黙認し、更紗を再び精神的な檻に閉じ込めようとした全経過をです」
スピーカーから、清沢の絶句したような息遣いが漏れる。
「……類輝、貴様、正気か! そんなことをすれば、お前の警察官としてのキャリアは……」
「キャリアなど、この真実の重みに比べれば、端数のようなものです」
類輝はタブレットを操作し、エンターキーを叩いた。
「社会の秩序(五人)が、一人の真実を殺そうとするなら、私はその社会のシステムそのものを破壊する」
スズキは、信じられないものを見るような目で類輝を見つめ、やがて腹を抱えて笑い始めた。その笑い声は、取調室の壁を震わせ、建物の隅々にまで響き渡った。
「最高だ! ああ、最高だよ、類輝さん! あんた、本物の『爆弾男』になったねえ!」
現場の路地裏。
突撃の合図を出そうとした清沢の手が、手元の端末に届いた速報によって止まった。
「……なんだ、これは」
類輝が放った「真実」という名の爆弾が、ネットワークを通じて一瞬で世界を駆け巡った。警察のメンツも、亮の正義も、世間の常識も、その圧倒的な「魂の合致」の記録の前に、急速に色あせていく。
東堂は、銃を下ろした捜査員たちの間を通り抜け、更紗と文の前に立った。
「……行け。誰にも見つからない場所へ」
更紗は、一度だけ東堂を見て、深く頷いた。
二人は、雨の向こう側へと歩き出した。それはハッピーエンドではない。一生、世間の目から逃れ、名前のない関係のまま漂い続ける「流浪」の始まりだった。
取調室で、スズキは満足げに目を閉じた。
「……流浪の月が、昇ったね」
窓の外では、夜明け前の雨が、すべてを洗い流すかのように激しく降り続いていた。




