第2章 某居酒屋「浦風」
【横浜・伊勢佐木町】
暖簾をくぐると、脂の焼けた匂いと、木の柱に染み込んだ長年の酒気が鼻を打つ。
「……こんなところが、"将校のたまり場"とはな。随分と風情があるじゃないか」
カウンター席に腰を下ろしながら、大和 砲術科 大尉の南條忠義が周囲に視線を走らせる。
一升瓶がずらりと並ぶ棚の奥では、白髪交じりの店主が黙々と鯖を炙っていた。
天井には昭和の演歌、TVにはニュース音声が消されたまま流れている。
「いかにも、ですね。現職もOBも、現場叩き上げも統幕も、ここではみんなただの"客"です。俺みたいな若造も……まぁ、一応、受け入れてもらえる場所でして」
海自イージス艦 まや 1等海尉砲雷長の雨宮 遼太がビールを注ぎながら、苦笑を浮かべる。制服の上着は脱ぎ、Tシャツの袖からは日焼けした腕が覗いていた。
「どうです。味は……」
の南條大尉はグラスを手にし、無言のまま口に含む。ひと呼吸置き、細く息を吐いた。
「……変わらぬもんだな。戦の前夜には、こういう場の酒が一番うまく感じる。味じゃない。空気が……そうさせるんだ」
1等海尉の雨宮 は言葉を返さず、無言でグラスを合わせた。
数秒の沈黙があった。
「台湾が、来ると?」
の南條が口を開いた。語気は穏やかだったが、その眼差しは艦橋から洋上を睨むときと同じ鋭さだった。
雨宮 は真っ直ぐ前を見据えたまま、静かに頷いた。
「——今の統幕は、4ヶ月以内を“臨界圏”と見ています。偵察衛星、SNS、サイバー。あらゆる兆候が、臨戦態勢を裏付けています」
「だが、“兆候”だけじゃ、米は腰を上げんぞ」
南條大尉の言葉に、雨宮1等海尉が応じる。
「それが問題なんです。日本の初動に対して、“アメリカがどこまで本気か”。
もし開戦初動で数百機単位のミサイルが与那国や石垣、嘉手納に降ってきたとしても——アメリカは議会承認を要します」
「なるほど……戦後も、結局“開戦の主導権”は、本土の遥か彼方にあるということか」
南條大尉は少しだけ、皮肉げに唇を歪めた。
「俺たちの時代は、“玉砕”が“忠義”とされていた。だがあんたらの時代は、“数値化された消耗”が、“国家の最適解”なんだろうな」
「……恥ずかしいですが、そうです。だからこそ、あの艦の再武装には意義があると思ってます」
「ほう?」
雨宮は、肩肘をついて前のめりになり、言った。
「いざとなれば、“旗”を掲げる場所が要る。
米軍が初動を躊躇している時、国内が迷っている時——“大和”が洋上に砲塔を向けて立っていれば、それは“判断”の触媒になる。
つまり、政治に、国民に、“逃げ場をなくさせる”象徴です」
南條は目を細めた。かつての海軍兵学校の戦術講義で、若き士官候補生がそう語っていたことを思い出す。
——「旗艦とは、物理的な要塞ではなく、意思の象徴でなければならぬ」
「それが……貴官の信ずる“現代の忠義”というわけか?」
「ええ。“生きて帰る”ための、戦いの構えです」
二人は無言のまま、グラスを傾けた。
やがてTVから、音声なしの速報テロップが流れる。
「米中の南シナ海における艦艇接近、米国務省は“異常な緊張”とコメント」
それを見た雨宮がつぶやいた。
「あと数ヶ月で、この国の“心の防衛線”が試されることになります」
南條は、焼き魚の皿を箸で割りながら、静かに言った。
「戦は……始まる前に、終わらせるのが一番だ。だがそのためには、こちらが“本気でやる気だ”と、相手に思わせねばならん。艦も、人も、そして——旗もだ」
その言葉に、イージス艦 まやの雨宮は無言で頷いた。
やがて、皿を下げに来た女将が「今日もお疲れ様です」と微笑みを浮かべる。
彼女がこの二人の正体を知っているかはわからない。だが、目の奥にある「何か」がただ者ではないことだけは、確かに感じ取っていた。
そして夜は更けていく。
近づく“嵐”を知る者だけが、かすかな潮の匂いに、未来の砲煙を嗅ぎ取っていた。