第181章 第5章:崩壊の序曲 —— 第一・第二主砲塔の不在
ノティール号は、泥にまみれた艦首甲板の上を、深海を這う甲殻類のように静かに後退していた。
深度三四二メートル。
HMIライトの青白い光束が、次に現れるはずの巨大構造物を求めて、暗黒の海水を切り裂いていく。
「そろそろだ」
パイロットのアンリが、コンソール上のソナー画像を睨みながら呟く。「設計図通りなら、ここに『怪物』が鎮座しているはずだ」
大和型戦艦一番艦「大和」。
その最大の存在理由は、人類史上最大の艦載砲、四五口径四六センチ三連装砲にある。
一基あたりの旋回部重量は二七七四トン。これは当時の大型駆逐艦一隻の排水量に匹敵する質量だ。その鉄塊が、この甲板の上に聳え立っていたはずだった。
「……何もない」
コパイロットのマルクが、呆気にとられた声を上げた。
ライトの先に現れたのは、砲塔ではなかった。
虚無だ。
甲板にぽっかりと開いた、巨大で真円に近い穴。
その直径は約一三メートル。まるで巨人がスプーンで甲板を抉り取ったかのような、底知れぬ闇がそこに口を開けていた。
「第一主砲塔バーベット(砲塔基筒)……空っぽか」
日本人オブザーバーの賢治は、予想していたこととはいえ、実物を目の当たりにした衝撃に息を呑んだ。
バーベットとは、主砲塔を支え、弾薬庫からの爆風を遮断するための装甲円筒だ。本来なら、この穴には鋼鉄の旋回盤が嵌まり込み、その上に不沈戦艦の象徴たる主砲が君臨しているはずだった。
「なぜだ?」マルクが問う。「爆発で吹き飛んだのか?」
「いいや、違う。これは『脱落』だ」
賢治はノートPCの画面を切り替え、大和の砲塔支持構造の断面図を表示させた。
「見てくれ。当時の戦艦の主砲塔は、車輪のような『ローラーパス』の上に、自重だけで乗っている構造なんだ。巨大なベアリングの上に置かれたコマのようなものだ」
賢治は画面上の赤いラインを指差した。
「旋回をスムーズにするために、摩擦を極限まで減らしている。だが、それは同時に、船体が大きく傾いた際の保持力を犠牲にすることを意味していた。……想定外の角度、つまり転覆だ」
一九四五年四月七日、一四時二三分。
左舷への集中雷撃を受けた大和は、復原力を喪失し、横転を開始した。傾斜が九〇度を超え、さらに一二〇度、一八〇度へと達した瞬間、重力のベクトルは逆転する。
二七七四トンの鉄塊を繋ぎ止めていたのは、わずかな保持クリップと自重だけだった。
それらは、地球が引く重力加速度(G)の前には無力だった。
「船体が裏返しになった時、砲塔は自らの重さに耐えきれず、スポンと抜け落ちたんだ。……ケーシングや給弾機構を引きちぎりながらな」
アンリが機体を上昇させ、バーベットの縁に接近する。
ライトが照らし出したのは、無残に引き千切られた鋼鉄の断面だった。
厚さ五〇ミリを超える高張力鋼が、まるで濡れた粘土のようにひしゃげ、外側へめくれ上がっている。旋回用ローラーが走っていたレール面は、脱落時の凄まじい摩擦と衝撃で削り取られ、深い溝が刻まれていた。
そこには、火薬の爆発による溶解の跡はない。あるのは、純粋な運動エネルギーによる「機械的な破壊」の痕跡だけだった。
「これが二七〇〇トンの爪痕か……」
アンリが呻く。「想像を絶する力だ」
賢治は、その暗黒の穴を覗き込んだ。
奥は深淵へと続いている。この穴の下には、かつて弾火薬庫があった。七〇年前、ここで何百人もの乗員たちが、絶望的な転倒の中で、落下する巨大な機械類に圧し潰されたことだろう。
バーベットの縁から垂れ下がる無数の配管やケーブルが、深海魚の触手のように揺らめいている。それは、切断された血管のようにも見えた。
「次へ行こう。第二主砲塔も同じはずだ」
賢治の声に促され、ノティール号はさらに後方へと進む。
予想通りだった。
第一砲塔のすぐ後ろ、一段高くなった位置にあるはずの第二主砲塔もまた、消失していた。
そこにあるのは、同じく虚ろな大穴だけ。
ただし、こちらの破壊状況はさらに深刻だった。バーベット周辺の甲板が大きく陥没し、亀裂が走っている。主砲脱落の際、砲身かあるいは後部が甲板に激突し、構造材を粉砕しながら海中へ落下したことを物語っていた。
「……本体はどこだ?」
マルクが周囲の闇を見回す。「これだけの質量だ。遠くへは流されていないはずだ」
「ソナーを広角モードへ。海底をスキャンしてくれ」
アンリが操作パネルを叩く。
ピング音が連続して鳴り響き、モニター上に海底地形のワイヤーフレームが描画されていく。
船体の右舷側、約三〇メートル離れた海底泥の中に、巨大な隆起反応があった。
「コンタクト。三時の方向。距離三〇」
「行ってみよう」
ノティール号は船体を離れ、泥の平原へと進路を取った。
海底の泥は微細な粒子で構成されており、スラスターのわずかな水流でも茶色い煙幕となって舞い上がる。
視界が晴れるのを待ちながら、彼らは慎重に接近した。
やがて、泥煙の向こうに、異様な山塊が姿を現した。
「……メルド(くそっ)」
マルクが悪態をつく。「なんてデカさだ」
それは、海底に突き刺さった鋼鉄の山だった。
四六センチ三連装砲塔。
上下逆さまの状態で、天蓋部分を泥に埋め、裏側の機構を晒して鎮座している。
その大きさは、三階建てのビルがまるごと落ちているような錯覚を覚えさせる。
賢治は息を殺して観察した。
砲塔の基部には、円筒状の構造物がついている。通称「バスケット」。砲塔旋回部と共に回転し、弾薬庫から砲室へと砲弾や装薬を持ち上げるための揚弾筒だ。
そのバスケットの下端が、見るも無残に引きちぎられていた。
太さ二〇センチはある油圧シリンダーが飴細工のようにねじ切れ、極太の電気ケーブルの束がスパゲッティのように散乱している。
鋼鉄の破断面は、カミソリで切ったように鋭利なものもあれば、引き延ばされて引きちぎられたものもある。それは、船体が転覆する際、この砲塔が最後まで船体に留まろうとし、そして重力に負けて構造的に最も弱い部分で破断した瞬間を凍結保存していた。
「見てくれ、あのパイプの群れを」
賢治が指差した。「消火装置のスプリンクラー配管だ。そしてあれが、給弾用のチェーンホイスト。……人間が挟まれば、痕跡も残らないだろう」
HMIライトが、砲塔の側面を照らす。
そこには、長い砲身が三本、泥の中に突き刺さっていた。
長さ二一・一三メートル。世界最大の四六センチ砲身。
かつて四〇キロメートル彼方の敵艦を粉砕するために鍛え上げられたその砲身は、今は海底の泥を深々と貫き、二度と火を噴くことのない永遠の沈黙を守っていた。
砲口は泥に埋まり、確認できない。だが、その圧倒的な存在感だけで、この兵器がどれほど規格外のものであったかを雄弁に語っていた。
「レーザースケーラーで測定。……砲身間隔、約三メートル。第二主砲塔と推定される」
マルクが記録を取る。「着底の衝撃で砲身が曲がっているように見えるな」
「一八メートルからの自由落下だ。水中とはいえ、二七〇〇トンの質量が一点にかかれば、特殊鋼でもひとたまりもない」
アンリが機体を回り込ませ、砲塔の裏側(本来の底面)を照らし出した。
そこには、無数の配管やバルブが内臓のように露出していた。複雑怪奇な機械構造。アナログ技術の極致。
その隙間に、小さなカニが一匹、ハサミを動かしながら這い回っていた。
殺戮のために作られた鋼鉄の巨人と、深海の小さな生命。その対比があまりにもシュールで、賢治は奇妙な感動を覚えた。
「……戻ろう」
賢治は静かに言った。「十分だ。主砲脱落のメカニズムは立証された」
「了解。船体へ戻る」
ノティール号が旋回し、再び泥煙を上げて移動を始める。
賢治は最後にもう一度、モニター越しにその残骸を振り返った。
闇の中に佇む第二主砲塔。
それは、大日本帝国という国家が注ぎ込んだ膨大な資源と技術、そして狂気にも似た情熱の墓標だった。
脱落した主砲塔の穴は、まるで巨人の眼窩のように虚ろに口を開け、深海の闇を見つめ返している。
次に向かうのは、艦橋。
かつて連合艦隊司令長官が座乗し、太平洋の覇権を争った指揮中枢だ。
だが、その手前には、さらに凄惨な光景が待ち受けているはずだった。
第三章の「壁」よりもさらに不可解な、船体の完全なる「切断」箇所が。
「深度三四〇、船体中央部へアプローチする」
アンリの報告と共に、ノティール号は再び巨大な鉄の壁に沿って進み始めた。
崩壊の序曲は終わった。
ここから先は、崩壊の本番だ。




