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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン23

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第181章 第5章:崩壊の序曲 —— 第一・第二主砲塔の不在


 ノティール号は、泥にまみれた艦首甲板の上を、深海を這う甲殻類のように静かに後退していた。

 深度三四二メートル。

 HMIライトの青白い光束が、次に現れるはずの巨大構造物を求めて、暗黒の海水を切り裂いていく。

「そろそろだ」

 パイロットのアンリが、コンソール上のソナー画像を睨みながら呟く。「設計図通りなら、ここに『怪物』が鎮座しているはずだ」

 大和型戦艦一番艦「大和」。

 その最大の存在理由は、人類史上最大の艦載砲、四五口径四六センチ三連装砲にある。

 一基あたりの旋回部重量は二七七四トン。これは当時の大型駆逐艦一隻の排水量に匹敵する質量だ。その鉄塊が、この甲板の上に聳え立っていたはずだった。

「……何もない」

 コパイロットのマルクが、呆気にとられた声を上げた。

 ライトの先に現れたのは、砲塔ではなかった。

 虚無だ。

 甲板にぽっかりと開いた、巨大で真円に近い穴。

 その直径は約一三メートル。まるで巨人がスプーンで甲板を抉り取ったかのような、底知れぬ闇がそこに口を開けていた。

「第一主砲塔バーベット(砲塔基筒)……空っぽか」

 日本人オブザーバーの賢治は、予想していたこととはいえ、実物を目の当たりにした衝撃に息を呑んだ。

 バーベットとは、主砲塔を支え、弾薬庫からの爆風を遮断するための装甲円筒だ。本来なら、この穴には鋼鉄の旋回盤が嵌まり込み、その上に不沈戦艦の象徴たる主砲が君臨しているはずだった。

「なぜだ?」マルクが問う。「爆発で吹き飛んだのか?」

「いいや、違う。これは『脱落』だ」


 賢治はノートPCの画面を切り替え、大和の砲塔支持構造の断面図を表示させた。

「見てくれ。当時の戦艦の主砲塔は、車輪のような『ローラーパス』の上に、自重だけで乗っている構造なんだ。巨大なベアリングの上に置かれたコマのようなものだ」

 賢治は画面上の赤いラインを指差した。

「旋回をスムーズにするために、摩擦を極限まで減らしている。だが、それは同時に、船体が大きく傾いた際の保持力を犠牲にすることを意味していた。……想定外の角度、つまり転覆だ」

 一九四五年四月七日、一四時二三分。

 左舷への集中雷撃を受けた大和は、復原力を喪失し、横転を開始した。傾斜が九〇度を超え、さらに一二〇度、一八〇度へと達した瞬間、重力のベクトルは逆転する。

 二七七四トンの鉄塊を繋ぎ止めていたのは、わずかな保持クリップと自重だけだった。

 それらは、地球が引く重力加速度(G)の前には無力だった。

「船体が裏返しになった時、砲塔は自らの重さに耐えきれず、スポンと抜け落ちたんだ。……ケーシングや給弾機構を引きちぎりながらな」

 アンリが機体を上昇させ、バーベットのリムに接近する。

 ライトが照らし出したのは、無残に引き千切られた鋼鉄の断面だった。

 厚さ五〇ミリを超える高張力鋼が、まるで濡れた粘土のようにひしゃげ、外側へめくれ上がっている。旋回用ローラーが走っていたレール面は、脱落時の凄まじい摩擦と衝撃で削り取られ、深い溝が刻まれていた。

 そこには、火薬の爆発による溶解の跡はない。あるのは、純粋な運動エネルギーによる「機械的な破壊」の痕跡だけだった。


「これが二七〇〇トンの爪痕か……」

 アンリが呻く。「想像を絶する力だ」

 賢治は、その暗黒の穴を覗き込んだ。

 奥は深淵へと続いている。この穴の下には、かつて弾火薬庫マガジンがあった。七〇年前、ここで何百人もの乗員たちが、絶望的な転倒の中で、落下する巨大な機械類に圧し潰されたことだろう。

 バーベットの縁から垂れ下がる無数の配管やケーブルが、深海魚の触手のように揺らめいている。それは、切断された血管のようにも見えた。

「次へ行こう。第二主砲塔も同じはずだ」

 賢治の声に促され、ノティール号はさらに後方へと進む。

 

 予想通りだった。

 第一砲塔のすぐ後ろ、一段高くなった位置にあるはずの第二主砲塔もまた、消失していた。

 そこにあるのは、同じく虚ろな大穴だけ。

 ただし、こちらの破壊状況はさらに深刻だった。バーベット周辺の甲板が大きく陥没し、亀裂が走っている。主砲脱落の際、砲身かあるいは後部が甲板に激突し、構造材を粉砕しながら海中へ落下したことを物語っていた。

「……本体はどこだ?」

 マルクが周囲の闇を見回す。「これだけの質量だ。遠くへは流されていないはずだ」

「ソナーを広角モードへ。海底ボトムをスキャンしてくれ」

 アンリが操作パネルを叩く。

 ピング音が連続して鳴り響き、モニター上に海底地形のワイヤーフレームが描画されていく。

 船体の右舷側、約三〇メートル離れた海底泥の中に、巨大な隆起反応があった。

「コンタクト。三時の方向。距離三〇」

「行ってみよう」

 ノティール号は船体を離れ、泥の平原へと進路を取った。

 海底の泥は微細な粒子で構成されており、スラスターのわずかな水流でも茶色い煙幕となって舞い上がる。

 視界が晴れるのを待ちながら、彼らは慎重に接近した。

 やがて、泥煙の向こうに、異様な山塊が姿を現した。


「……メルド(くそっ)」

 マルクが悪態をつく。「なんてデカさだ」

 それは、海底に突き刺さった鋼鉄の山だった。

 四六センチ三連装砲塔。

 上下逆さまの状態で、天蓋ルーフ部分を泥に埋め、裏側の機構を晒して鎮座している。

 その大きさは、三階建てのビルがまるごと落ちているような錯覚を覚えさせる。

 賢治は息を殺して観察した。

 砲塔の基部には、円筒状の構造物がついている。通称「バスケット」。砲塔旋回部と共に回転し、弾薬庫から砲室へと砲弾や装薬を持ち上げるための揚弾筒だ。

 そのバスケットの下端が、見るも無残に引きちぎられていた。

 太さ二〇センチはある油圧シリンダーが飴細工のようにねじ切れ、極太の電気ケーブルの束がスパゲッティのように散乱している。

 鋼鉄の破断面は、カミソリで切ったように鋭利なものもあれば、引き延ばされて引きちぎられたものもある。それは、船体が転覆する際、この砲塔が最後まで船体に留まろうとし、そして重力に負けて構造的に最も弱い部分ウィークポイントで破断した瞬間を凍結保存していた。

「見てくれ、あのパイプの群れを」

 賢治が指差した。「消火装置のスプリンクラー配管だ。そしてあれが、給弾用のチェーンホイスト。……人間が挟まれば、痕跡も残らないだろう」

 HMIライトが、砲塔の側面を照らす。

 そこには、長い砲身バレルが三本、泥の中に突き刺さっていた。

 長さ二一・一三メートル。世界最大の四六センチ砲身。

 かつて四〇キロメートル彼方の敵艦を粉砕するために鍛え上げられたその砲身は、今は海底の泥を深々と貫き、二度と火を噴くことのない永遠の沈黙を守っていた。

 砲口マズルは泥に埋まり、確認できない。だが、その圧倒的な存在感だけで、この兵器がどれほど規格外のものであったかを雄弁に語っていた。


「レーザースケーラーで測定。……砲身間隔、約三メートル。第二主砲塔と推定される」

 マルクが記録を取る。「着底の衝撃で砲身が曲がっているように見えるな」

「一八メートルからの自由落下だ。水中とはいえ、二七〇〇トンの質量が一点にかかれば、特殊鋼でもひとたまりもない」

 アンリが機体を回り込ませ、砲塔の裏側(本来の底面)を照らし出した。

 そこには、無数の配管やバルブが内臓のように露出していた。複雑怪奇な機械構造。アナログ技術の極致。

 その隙間に、小さなカニが一匹、ハサミを動かしながら這い回っていた。

 殺戮のために作られた鋼鉄の巨人と、深海の小さな生命。その対比があまりにもシュールで、賢治は奇妙な感動を覚えた。

「……戻ろう」

 賢治は静かに言った。「十分だ。主砲脱落のメカニズムは立証された」

了解ビヤン。船体へ戻る」

 ノティール号が旋回し、再び泥煙を上げて移動を始める。

 賢治は最後にもう一度、モニター越しにその残骸を振り返った。

 闇の中に佇む第二主砲塔。

 それは、大日本帝国という国家が注ぎ込んだ膨大な資源と技術、そして狂気にも似た情熱の墓標だった。

 脱落した主砲塔のバーベットは、まるで巨人の眼窩のように虚ろに口を開け、深海の闇を見つめ返している。

 次に向かうのは、艦橋ブリッジ

 かつて連合艦隊司令長官が座乗し、太平洋の覇権を争った指揮中枢だ。

 だが、その手前には、さらに凄惨な光景が待ち受けているはずだった。

 第三章の「壁」よりもさらに不可解な、船体の完全なる「切断」箇所が。

「深度三四〇、船体中央部へアプローチする」

 アンリの報告と共に、ノティール号は再び巨大な鉄の壁に沿って進み始めた。

 崩壊の序曲は終わった。

 ここから先は、崩壊の本番だ。


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