第179章 第4章:艦首の威容 —— 菊の紋章との対峙
深度三四五メートル。
水温一二度。
ノティール号の外部照明、四灯のHMIライトが放つ合計四〇〇〇ワットの光束が、漆黒の海水に白濁した円錐を描いていた。その光の切っ先が舐めるように照らし出しているのは、圧倒的な質量を持つ「壁」だ。
それは、もはや風景の一部と化していた。
灰黒色の鋼鉄は、長い年月をかけて降り積もった堆積物と、酸化による腐食で薄汚れている。だが、その肌合いは岩石の不規則な粗さとは決定的に異なっていた。あくまで滑らかであり、人工的な曲面が無限に続いているかのような錯覚を抱かせる。
「ヘディング(機首方位)、ゼロ・三・五。壁に沿って前進する」
パイロットのアンリが、操縦桿をミリ単位で操作する。
ノティール号は、巨大な鋼鉄の岸壁に寄り添う羽虫のように、慎重に位置を変えていく。スラスターが微弱な水流を生み出し、まとわりつくマリンスノーを吹き飛ばすが、すぐに新たな雪が視界を覆う。
「ソナー反応、前方三〇メートルで急激に湾曲している」
コパイロットのマルクが、緑色の波形が表示されたモニターを指でなぞった。
「このカーブ……間違いない。艦首だ」
日本人オブザーバーの賢治は、膝上のノートPCに表示された三次元CADデータを凝視していた。それは、七〇年以上前の設計図を基に復元された、大日本帝国海軍「大和型」戦艦のワイヤーフレームモデルだ。
「バルバス・バウ(球状艦首)を確認したい。この船のアイデンティティの一つだ」
賢治の声は、意識して抑えているにも関わらず、僅かに震えていた。
「了解。深度を下げて、下から舐めるようにアプローチしよう」
アンリの操作で、機首がゆっくりと下を向く。
ライトの光軸が下がり、闇の底から、異様な形状が浮かび上がった。
通常の船のように鋭く波を切る形状ではない。それは巨大な球根のように膨らみ、前方に突き出していた。流体力学の粋を集め、造波抵抗を極限まで減らすために設計されたそのフォルムは、現代のタンカーや大型船では見慣れたものだが、当時としては画期的な技術の結晶だった。
「見ろ……美しい曲線だ」
アンリが感嘆の声を漏らす。「まるで鯨の頭だ。七〇年も海底に眠っていたとは思えないほど、形状を保っている」
鋼鉄の球体は、右舷側に大きく傾いていた。
巨大な質量が海底の泥に深く突き刺さっているのではない。沈没の過程で船体が横転しかけ、その姿勢のまま海底山脈の斜面に激突、あるいは着底したことを物語っている。右舷を下にしたその角度は、およそ四五度。
「レーザースケーラー照射」
マルクがスイッチを入れる。
船体から二本の緑色のレーザー光が発射され、錆びついたバルバス・バウの表面に二つの輝点を描いた。その点と点の間隔は、正確に一〇センチメートルに設定されている。
「画像解析、スケーリング開始」
賢治はモニター上で、レーザーの輝点を基準に、バルバス・バウの直径を計測した。
「……直径、約五メートル。設計図の数値と誤差範囲内で一致。間違いない、これは『大和』と同型の構造物だ」
三人の間に、重い沈黙が流れた。
数値による証明。それは科学的な勝利であったが、同時に彼らが今、巨大な墓標の足元にいるという事実を冷徹に突きつけていた。
「上昇する。……メインイベントだ」
アンリが機体を上昇させる。
バルバス・バウの膨らみを越え、艦首の稜線を辿るように、ノティール号は這い上がっていく。
垂直に切り立った艦首材。
その鋭利な刃のようなラインを、強力なライトが下から上へと照らし出していく。
視界の端を、小さな深海魚が横切ったが、誰も気に留めなかった。全員の視線は、艦首の先端、その一点だけに吸い寄せられていた。
泥と錆に覆われた鋼鉄のキャンバス。
その先端に、異質な輝きがあった。
「……あった」
賢治が息を呑んだ。
「あれだ」
そこにあったのは、直径一メートルほどの、円形のレリーフだった。
周囲の鋼鉄が赤茶けた錆に覆われ、フジツボや海綿が寄生して荒れ果てている中で、それだけが奇跡のように滑らかな輪郭を保っていた。
ライトの光が直撃する。
一瞬、暗黒の深海に黄金色の閃光が走った。
十六八重表菊。
皇室の御紋章。
戦艦の艦首にのみ許された、最高位の象徴。
木製の台座はとうに腐ち果てているはずだが、厚みのある金属製の花弁は、泥汚れを被りながらも、その下にある黄金の輝きを失っていなかった。金は酸化しない。七〇年という歳月も、海水という最強の溶媒も、この高貴な金属の輝きを奪うことはできなかったのだ。
「なんと……」
フランス人のアンリが、十字を切るような仕草をした。「写真では見たことがあったが、実物は圧倒的だ。まるで太陽が凍りついているようだ」
「これが、この船の魂か」
マルクもまた、モニター越しに見るその紋章に魅入られていた。「直径一〇〇センチ。……本当に金メッキなのか?」
「当時はチーク材の台座の上に、金箔を貼った銅版か、あるいは金メッキされた真鍮が使われていたと言われている」
賢治は乾いた喉で解説した。「だが、この輝きを見る限り、かなり厚い金の層が残っているようだ」
賢治は操作パネルを叩き、外部カメラのズーム倍率を上げた。
モニター一杯に、菊の紋章が映し出される。
花弁の一枚一枚に、海底の泥が積もっている。その泥の隙間から覗く鈍い金色は、かつてこの艦が背負っていた国家の威信と、その末路の悲哀を無言で語っていた。
かつて、この紋章の前で、何千人もの水兵たちが整列し、敬礼を捧げたはずだ。
今はただ、深海の冷たい水圧と、沈黙だけが支配している。
「レーザー計測。直径、一〇〇二ミリ」
マルクが事務的な声で数値を読み上げるが、その声色には隠せない興奮が混じっていた。「完璧だ。文献通りだ」
ノティール号は、菊の紋章と正対する位置でホバリングを続けた。
まるで、かつての洋上の巨人に敬意を表するかのように。
ライトの熱で、紋章の周囲の水温が僅かに上がったのだろうか。周囲の海水が揺らぎ、菊の御紋がまるで呼吸をしているかのように見えた。
「甲板レベルまで上がるぞ」
アンリが静かに告げた。
名残惜しさを振り切るように、機体が上昇を再開する。
菊の紋章が視界の下へと消えていく。
すぐに、艦首甲板の端が見えてきた。
右舷側への傾斜がきつい。もしここに人間が立っていれば、滑り落ちて海へ転落してしまうほどの角度だ。
甲板の上は、厚い泥の層で覆われていた。かつては美しいヒノキ材が敷き詰められていた木甲板も、バクテリアとフナクイムシによって食い尽くされ、今はその下の鋼鉄の梁と、泥だけが残っている。
「フェアリーダーを確認」
賢治が指差した。
艦首の両舷に設置された、係留索を通すための巨大な孔。その鋳鉄製の枠組みは、錆びついてはいるものの、原型を留めていた。その奥には、かつて極太のロープや鎖を巻き上げていたキャプスタン(揚錨機)のシルエットが、亡霊のように霞んで見える。
カメラをパン(旋回)させる。
かつて、ここでは出入港のたびに、「錨を揚げろ!」「もやい、放て!」といった怒号と号令が飛び交っていただろう。海風を受け、波飛沫を浴びながら、若者たちが走り回っていた場所。
今は、マリンスノーが音もなく降り積もるだけの、死の世界だ。
「アンカーチェーンが見当たらない」
マルクが指摘した。「鎖孔から鎖が伸びていない。……錨は格納された状態か?」
「あるいは、沈没の衝撃で切断されたか」賢治が答える。「いや、戦闘航海中だったのなら、錨は巻き上げられ、固定されていたはずだ」
三人はしばらくの間、言葉を発しなかった。
ただ、モニターに映し出される「死んだ風景」を見つめていた。
そこにあるのは、単なる金属の塊ではない。
時間そのものが凍結された空間だ。
一九四五年四月。あの日の絶望と轟音、炎と血の記憶が、この三四五メートルの水圧によって真空パックされ、永遠に保存されている。
不意に、船体のどこか遠くで「キーン」という高い金属音が響いた。
水圧による船体の収縮音か、あるいは潮流の変化か。
それはまるで、眠りを妨げられた巨人の寝息のように、あるいは英霊たちの囁きのように、彼らの耳に届いた。
「……行こう」
賢治は短く言った。「ここは入り口に過ぎない。我々が見るべきものは、もっと奥にある」
「了解。これより艦首を離れ、上部構造物――艦橋方面へ向かう」
アンリがスロットルを操作する。
ノティール号は機首を巡らせ、右舷に傾いた広大な甲板の上を、滑るように移動し始めた。
背後では、菊の紋章が再び闇の中へと沈み込み、主のいない深海で、孤独な輝きを放ち続けていた。




