第179章 第3章:潜航 —— 暇つぶしサークルにて
野本:(パイプ椅子に正座し、文庫本サイズのメモ帳を読み上げている)
「……南シナ海、北緯十二度。フランスの深海探査艇『ノティール』は、Aフレーム・クレーンによって宙吊りにされていました。……部長、想像してください。直径二・一メートルのチタン製の球体に、成人男性が三人、ぎゅうぎゅう詰めです」
橋本副部長:(スマホのゲームを止めずに)
「密だな。ソーシャルディスタンスの概念がない世界だ」
野本:
「はい。空調が効く前なので、内部は蒸し風呂状態。まさに、真夏の満員電車で冷房が故障した時の小田急線です」
小宮部長:(窓の外をぼんやり見ながら)
「野本さん、その例えだと生活感が強すぎるわ。もっとこう、閉ざされた空間の『聖性』みたいなものを感じない? 三人寄れば文殊の知恵っていうか、母なる海の子宮に還るっていうか」
野本:
「いえ、部長。文中には『缶詰の中の鰯』とあります。子宮というよりは、オイルサーディンです」
小宮部長:
「……急に生臭くなったわね」
野本:
「そして、着水。『ドバァァァン!』という衝撃と共に、世界は青一色に。……深度一〇メートルはクリアブルー。深度五〇メートルでコバルトブルー。……部長、ここからが重要です。『赤』という色が海水に吸収され、自分の血管が黒く浮き上がって見えるそうです」
小宮部長:
「へえ。美大志望だった私としては興味深いわね。色彩が失われていくプロセス……。減法混色の究極系って感じ?」
橋本副部長:
「お前ら、さっきから会話の内容がアカデミックなのか適当なのかどっちなんだよ」
場所: 大学の中庭、ベンチ。
野本:
「……深度二〇〇メートル。トワイライトゾーンです。ここで、ライトを点灯します」
山田:
「アリュメって何だよ。呪文?」
野本:
「フランス語で『点火』です。山田さん、そこで彼らが見たものは『雪』でした」
重子:
「えっ、海の中に雪? ロマンチック~!」
野本:
「マリンスノーです。……その正体は、プランクトンの死骸、排泄物、微生物の塊です」
重子:
「……撤回する。汚い」
野本:
「重子さん、汚いと言ってはいけません。これは深海の重要な栄養源です。ライトに照らされた排泄物の吹雪が、視界を真っ白に覆い尽くすのです。パイロットは『ミルクの中を進んでいるようだ』と言っています」
山田:
「排泄物の吹雪をミルクに例えるフランス人の感性、すげーな」
野本:
「視界不良との戦いです。……まるで、冬場の鍋パーティーで換気扇を回し忘れた時の、あの部屋の白さと同じです」
重子:
「野本さんの例え、いちいちスケールが小さいんだよなぁ」
場所: ファミレス「ジョリーズ」。
亀山:
(シルバー類をナプキンで巻きながら)
「で、そのフランスの潜水艦はどうなったのよ。まだ潜ってるの?」
野本:
「はい、亀山さん。深度三三〇メートル付近で、ソナーが奇妙な『直線』を捉えました。……自然界には存在しない、完全な直線です」
富山:
「ふーん。海底ケーブルとかじゃないの?」
野本:
「違います。……マリンスノーの泥煙が晴れた瞬間、そこに現れたのは『巨大な鋼鉄の壁』でした。リベットも溶接跡もない、ツルツルの壁です」
亀山:
「あらやだ。ツルツル? 海の中にずっとあったのに? フジツボもついてないの?」
野本:
「はい。不気味なほど清潔で、滑らかだそうです」
亀山:
「羨ましいわねぇ! ウチの台所のシンクなんて、三日サボったらすぐヌメリが出るのに。その壁、どんなコーティング剤使ってんのかしら。ダスキンもびっくりよ」
富山:
「亀山さん、視点が主婦すぎるって」
野本:
「三人の男たちは、その壁を見て言葉を失いました。……深度三四五メートル。そこは人類の常識を隔てる『境界線』だったのです」
富山:
「へー、すごいね(棒読み)。……あ、野本さん、3番テーブルのお客さん呼んでるよ」
野本:
「はい、ただいま。……富山さん、私たちがホールとキッチンの境界線を行き来するように、彼らもまた、異界との境界線を越えていくのですね」
富山:
「うん、ごめん。全然上手くないから早くオーダー取ってきて」
野本:
「野本と申します。……ご注文をお伺いします」




