第178章 第3章:潜航 —— 深度345メートルの境界線
その瞬間、世界は振り子のように揺れていた。
南シナ海、北緯十二度。正午の太陽が真上から照りつける洋上で、フランス国立海洋開発研究所(IFREMER)が誇る有人深海探査艇「ノティール」は、母船の後部甲板にある巨大なAフレーム・クレーンによって吊り下げられていた。
チタン合金で鍛造された直径二・一メートルの耐圧殻。
その極小の閉鎖空間に押し込められた三人の男たちは、まるで缶詰の中の鰯のように身を寄せ合っている。空調が本格稼働する前の船内は蒸し風呂のような暑さだ。首筋を伝う汗が、耐圧服の襟に吸い込まれていく。
「吊り下げフック、テンション確認。揺れに合わせろ」
ヘッドセット越しに、母船のデッキ・オフィサーのフランス語が響く。
メインパイロットを務めるアンリは、コンソール上の無数のスイッチに視線を走らせながら、短く「了解」と応じた。白髪交じりの短髪に、深い皺が刻まれた目元。深海という魔境に三千回以上挑んできたベテランの指先は、ピアノ線を扱うかのように繊細にバラストタンクの注水弁に触れている。
その右隣、副操縦席に座る若手のマルクが、タブレット端末でチェックリストを読み上げる。
「酸素供給圧、正常。CO2スクラバー、稼働中。ハッチ密閉確認。……ケンジ、気分はどうだ?」
マルクが振り返り、後部の観察席に窮屈そうに座る日本人オブザーバー、高村賢治に声をかけた。
賢治は膝の上に置いたデータログ用のノートPCを抱え直し、引きつった笑みを浮かべる。
「最高だよ。サウナとジェットコースターを同時に楽しんでる気分だ」
「ハハッ、違いねえ。だが冷水風呂はすぐそこだ」
ガコン、という激しい金属音が頭上で鳴り響いた。
Aフレームが海側へと倒れ込み、黄色い潜水艇のボディが空中に踊り出る。
三つの小さなアクリル製観察窓の外、青い空と水平線が激しく上下したかと思うと、次の瞬間、視界のすべてが白い泡沫に覆われた。
ドバァァァン!
着水。
二〇トンの質量が海面を叩く衝撃が、脊椎を直接揺さぶる。
船体が大きく傾き、やがて振り子の揺れが、波に揺られるゆったりとした浮遊感へと変わった。
「ノティールより母船。着水を確認。これより潜航を開始する」
アンリが無線機(VHF)のスイッチを切ると同時に、バラストタンクへの注水音が響き始めた。
シュゴオオオ、という空気が抜ける音と共に、窓の外を覆っていた白い泡が消え、鮮烈な「青」が押し寄せてくる。
潜航開始。
深度一〇メートル。
窓の外は、目が覚めるようなクリアブルーだ。太陽光が波のレンズによって集光され、海中で光のカーテンのように揺らめいている。まだ、ここには地上の支配が及んでいる。
だが、その安らぎは一瞬で過ぎ去る。
深度五〇メートル。
青が濃くなる。エメラルドを含んだ明るさは消え、インクを溶かしたようなコバルトブルーが視界を埋め尽くす。
賢治は窓に額を近づけた。赤い波長の光が海水に吸収され、世界から「赤」という色が失われていく。自分の手の甲を見ると、血管が黒く浮き上がり、まるで死人の肌のように青白く見えた。
「深度一〇〇通過。降下速度、毎分三五メートル」
アンリの声が低く響く。
窓の外は、群青へ。
それは色というよりも、概念としての「深さ」そのものだった。上を見上げても、もう太陽の輝きはない。ただ、頭上がわずかに明るく、足元が絶望的に暗いというグラデーションだけが、天地の区別を教えてくれる。
船内の気温が下がり始めた。
チタンの殻を通して、深海の冷気がじわりと侵食してくるのだ。賢治は足元の毛布を引き寄せ、膝に掛けた。
直径二・一メートルの球体。大人三人があぐらをかけば、互いの膝が触れ合う距離だ。逃げ場はない。
聞こえるのは、酸素ボトルの微かな噴出音、電子機器の冷却ファンが回るハム音、そして時折響く、ソナーのピング音だけ。
ピン……、ピン……。
その規則的な電子音は、闇の中で鼓動を打つ心臓のようでもあり、深淵へのカウントダウンのようでもあった。
「深度二〇〇。トワイライトゾーンに入る」
マルクが告げる。
群青は、もはや限りなく黒に近い藍色へと変わっていた。
人間の目が光を捉えられる限界。ここから先は、永遠の夜だ。
「ライト点灯」
アンリがスイッチを弾く。
船体前部に取り付けられた強力なLEDフラッドライトが、一斉に光を放った。
その瞬間、賢治は息を呑んだ。
「……雪だ」
暗黒の空間に、無数の白い粒子が舞っていた。
マリンスノー。
プランクトンの死骸、排泄物、微生物の凝集体。海面から深海へと降り注ぐ有機物の雪だ。
ライトの光束を横切るそれらの粒子は、潜水艇が沈降しているため、相対的に下から上へと猛烈な勢いで吹き上げてくるように見える。
まるで、激しい吹雪の中を、猛スピードでバックしているかのような錯覚。
視界が白く濁る。光が乱反射し、ハレーションを起こして前が見えない。
「密度が高いな」
アンリが眉をひそめた。「まるでミルクの中を進んでいるようだ」
「バイオマスが豊富な海域ですからね」と賢治は答えた。「しかし、これでは視認距離は数メートルもない」
深度三〇〇メートル。
計器盤の数値だけが、彼らの現在位置を証明している。
外は白い闇だ。マリンスノーの乱舞が、距離感と平衡感覚を狂わせる。パイロットは窓の外の景色ではなく、ジャイロコンパスと深度計、そしてソナーの反応だけを信じて操縦桿を握るしかない。
「高度計に反応。海底……いや、ターゲットか?」
マルクの声に緊張が走る。
通常、この海域の水深は二〇〇〇メートルを超えるはずだ。だが、ソナーは直下に巨大な「何か」を捉えていた。
事前のブリーフィング通りだ。
そこに、あるはずのない地形。あるいは、構造物。
「深度三三〇。減速する。バラスト調整」
アンリがショット・バラスト(鉄球)をわずかに投下し、浮力を調整して降下速度を緩める。
船体のきしみ。
水圧はすでに三〇気圧を超えている。指一本分の面積に三〇キログラムの重りが乗っている計算だ。チタンの球殻がミシミシと微細な収縮を繰り返し、乗員たちの鼓膜を圧迫する。
「ソナー感度調整。……おい、見ろよこれ」
マルクがメインモニターを指差した。
扇状に広がるソナースキャン映像。その中央に、不自然なほど鮮明な「直線」が描かれていた。
自然界には存在しない、完全な直線。
「深度三四〇。接触まであと五メートル」
賢治は観察窓に顔を押し付けた。
ライトに照らされたマリンスノーの吹雪が、層を成して流れていく。その向こう側。白い濁りの奥に、どす黒い影が揺らめいた。
「来るぞ」
アンリが囁くように言った。
深度三四五メートル。
それは唐突に現れた。
泥煙のようなマリンスノーの幕が、舞台のカーテンのように左右に裂けた。
目の前に、壁があった。
岩盤ではない。
濡れたような鈍い光沢を放つ、巨大な鋼鉄の壁だ。
リベットの列も、溶接の跡も見当たらない。ただ、のっぺりとした灰黒色の金属面が、ライトの光を冷たく弾き返している。
上を見上げても、下を見下ろしても、その壁は視界の限界を超えて続いていた。
「……信じられん」
マルクが息を吐き出す。「まるで、海の中にダムを建設したみたいだ」
「あるいは、巨大な船の側面か」
アンリが操縦桿を微調整し、ホバリング状態に入る。スラスターが泥を巻き上げ、視界を一瞬奪うが、すぐに水流で晴れる。
賢治は震える手でカメラのシャッターを切った。
ノティール号の強力なライトでさえ、その全貌を照らし出すことはできない。
だが、肌で感じ取ることができた。
目の前にあるのは、人類の技術体系とは異なる「異物」だ。
長い年月、海中にあったはずなのに、付着生物が一つもついていない。その表面は、いま工場から出荷されたばかりのように滑らかで、不気味なほど清潔だった。
「深度三四五メートル……ここが『境界線』か」
賢治は独りごちた。
ソナーが示した通り、この壁はここからさらに深海へと向かって、垂直に落ち込んでいる。
アンリがゆっくりと機首を下へ向けた。
「行こう。この壁の底を見るまでは、帰れん」
パイロットの言葉に、二人は無言で頷いた。
ノティール号は、鋼鉄の絶壁に沿って、さらなる深淵へと滑り落ちていった。マリンスノーの吹雪が、再び彼らを包み込んだ。




