第177章 第2章:出航 —— 暇つぶしサークルにて
野本:(眼鏡を押し上げながら、淡々とした口調で原稿用紙を読んでいる)
「……北緯四十五度。波高四メートル。鉛色の空の下、不機嫌な獣のように揺れる母船ナディール。……部長、この『不機嫌な獣』というのは、具体的にはどの程度の不機嫌さでしょうか。ファミレスで注文したハンバーグが半生だった時くらいの不機嫌さでしょうか」
小宮部長:(スケッチブックに鉛筆を走らせながら、気だるげに)
「野本さん、そこは詩的な表現なのよ。グレーの絵の具をチューブから出したままの、あのドロッとした感じ。美大志望だった私から言わせれば、その『鉛色』の重厚感が大事なの。ハンバーグの焼き加減の話じゃないわ」
橋本副部長:(文庫本から顔を上げず)
「ていうか野本、なんで部室で急にハードボイルドな潜水艦小説の音読を始めたんだよ」
野本:
「橋本副部長。これは小説ではありません。私の脳内で展開されている、深海探査のシミュレーションです。暇だったので」
橋本副部長:
「暇の潰し方が重厚すぎるだろ」
野本:
「続けます。……母船ナディールは全長一八〇メートル。かつての強襲揚陸艦。錆の浮いた灰色の外板は、歴戦の皮膚だそうです。まるで、私が実家の物置で見つけた、父の古いゴルフクラブのような趣きです」
小宮部長:
「野本さん、その例えだと一気に所帯じみるわね。もっとこう、鉄と油の匂いがするようなマテリアル感を想像して」
野本:
「では、格納庫のシーンへ移ります。……深海探査艇『ロビン』。チタン合金製の完全な球体。濡れたような黒色。巨大な黒真珠。……あるいは」
橋本副部長:
「あるいは?」
野本:
「巨大なタピオカです」
橋本副部長:
「台無しだよ。一気に原宿だよ」
野本:
「しかし副部長、直径二・二メートルの耐圧殻ですよ? その狭い球体に男二人が押し込められるのです。これはもう、タピオカの中に閉じ込められたタピオカの精の気持ちになるしかありません」
小宮部長:
「タピオカの精って何よ。……でも、その閉塞感は悪くないわね。オゾンと機械油の匂い……。部室の埃っぽい匂いと通じるものがあるわ」
野本:
「パイロットの相馬さんは、慣れた手つきでハーネスを締め上げます。カチ、カチ。……そして、ムーンプールが開きます。足元には暗黒の海。……部長、ここで『ドボン』という擬音が使われていますが、もっと科学的な表現はないものでしょうか」
小宮部長:
「『ドボン』でいいのよ。重力が質量を海面に叩きつける音。シンプル・イズ・ベスト」
野本:
「そうですか。では、ロビンは母船から吐き出され、冷たい海中へ。『ドボン』」
橋本副部長:
「言い方が軽いな……」
場所: 大学のキャンパス内、ベンチ。
山田:
「へえ、深海探査艇か。すげーな。数千メートル潜るんだろ? 俺だったら絶対無理だわ。閉所恐怖症だし」
重子:
「私もー。トイレの鍵が壊れて出られなくなっただけでパニックになったことあるし」
野本:
(遠くを見ながら)
「深海数百気圧の世界。そこでは、母船ナディールが『世界に蓋をする墓石』のように見えるそうです。山田さん、重子さん。想像してみてください。頭上に広がる空が、すべて鋼鉄の板で塞がれている絶望感を」
重子:
「野本さん、今日天気いいのに何てこと言うの」
山田:
「でもさ、そのパイロット、相馬だっけ? そいつは何しに潜るの? ただの観光じゃないんだろ」
野本:
「……『ターゲット』が歌っているそうです」
重子:
「え? 歌?」
野本:
「ソナーが拾った人工的なパルス音。キン……キン……と。クジラの歌でも地殻変動でもない、深淵からの手招き。……相馬さんは、その音に導かれて、光の届かない漆黒の世界へ落ちていくのです」
山田:
「うわ、なんか急にホラーっぽくなったな」
野本:
「山田さん。私たちが講義中に聞く、先生の単調な声が遠のいていく時の感覚……あれこそが、意識の深海へのダイブなのかもしれません」
重子:
「それは単なる居眠りだよ、野本さん」
場所: ファミレス「ジョリーズ」。
亀山:
(ダスターでテーブルを拭きながら)
「やだわぁ、外は大雨ねぇ。気圧が低いと古傷が痛むのよ。野本さん、あんた若いからわかんないでしょうけど」
野本:
「亀山さん。今の気圧配置は、北緯四十五度の荒天海域に匹敵するかもしれません」
富山:
「え、何それ。どこの話?」
野本:
「私の頭の中にある、海洋調査母船ナディールの話です。……亀山さん、深海パイロットが着る耐圧服は、血流確保のために体を強く圧迫するそうです」
亀山:
「あら、それってアレじゃない? 着圧ソックスみたいなもん? 私も履いてるわよ、むくみ防止に。きっついのよねぇ、あれ」
野本:
「……なるほど。深海探査の最前線装備と、亀山さんのむくみ防止ソックスが、技術的にリンクしました」
富山:
「野本さんの中で何がリンクしたのか全然わかんないけど。……で、その潜水艦は無事なの?」
野本:
「今、深度一〇〇メートルを通過しました。トワイライトゾーンです。……窓の外は藍色のグラデーション。でも、パイロットはライトを点けません。マリンスノーが反射して視界を奪うからです」
亀山:
「マリンスノーって、あんた。ロマンチックな名前だけど、要はプランクトンの死骸とかフンでしょう?」
富山:
「うわ、言わないでよ亀山さん。綺麗だと思ってたのに」
野本:
(お盆を胸に抱えて)
「暗闇の中で、上を見上げても母船の影はもう見えません。……繋がっているのは音波だけ。孤独です。……まるで、シフトの穴埋めで急に呼び出された休日のランチタイムのような孤独感です」
亀山:
「あ、それわかる。誰も助けてくれない感じね」
富山:
「いや、そこは店長呼びなよ」
野本:
「野本と申します。……深海の相馬さんに、せめてドリンクバーのチケットでも渡してあげたい気分です」
富山:
「……相馬さんって誰よ」




