第192章 序章 逆再生される夢
1999年の夏が、終わろうとしていた。
鹿児島市内のホテルの一室。窓の外には、錦江湾の穏やかな闇が広がっている。
賢治は、シャワーを浴びて潮の匂いを落とした後も、眠ることができずにいた。
脳裏に焼き付いて離れないのだ。あの深海で見た、引き裂かれた鋼鉄の断末魔が。
机の上には、今回の調査データを収めたハードディスクと、比較対照用に持ち込んだ数冊の古い資料集が置かれている。
彼はその中から、分厚い図面ケースを開いた。
中から現れたのは、和紙に焼かれた古い青図の複製だった。
『軍極秘 試案 A-140-F6』
そこには、海底で見たあの無残な鉄塊とは似ても似つかない、あまりにも優美で、幾何学的な「理想」が描かれていた。
定規と烏口で引かれた、迷いのない直線。
コンパスが描いた、完全な円弧。
計算尺が弾き出した、極限の数値。
海底の大和は「物理的な現実」だったが、この図面の中の大和は「数学的な完全」として存在していた。
「……美しいな」
賢治は思わず息を漏らした。
エンジニアとして、この図面を引いた人間たちの執念に圧倒される。
ここには、錆もなければ、破壊もない。
あるのは、物理法則への純粋な挑戦と、国家の命運を背負って立つという強烈な意思だけだ。
誰が、これを描いたのか。
どんな思いで、この一本の線に命を削ったのか。
賢治の指が、図面の右下に記された署名をなぞる。
『造船大佐 福田啓二』
その文字を見た瞬間、賢治の意識は、時間を遡行し始めた。
モニターの中の3Dモデルが解体されていく。
錆びついた鉄板が、赤茶色の酸化膜を剥ぎ取られ、銀色の輝きを取り戻す。
へし折れたリベットが、再び強固に結びつく。
海底の泥が消え、海水が引いていく。
スクリューが逆回転し、巨体が深海から海上へと浮上する。
溶断された装甲が再び繋がり、炎は収束し、火薬は薬莢の中へと戻る。
時間は70年、いや、それ以上前へと巻き戻される。
1945年の絶望から、1941年の栄光へ。
そして、それよりもさらに前。
鉄がまだ鉄鉱石であり、巨艦がまだ形を持たず、ただの「数値」と「線」として、男たちの頭脳の中にだけ存在していた時代へ。
ホテルの空調の音が遠ざかる。
代わりに聞こえてくるのは、窓を叩く冷たい秋雨の音だ。
潮の匂いは消え、インクと古紙、そして紫煙の匂いが漂ってくる。
場所は鹿児島ではない。
1935年、東京。
すべてが始まった、あの日へ。
(序章 完)




