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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン23

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第191章 第10章:浮上 —— 解析と継承


 その合図は、物理的な衝撃というよりも、魂の解放に近い響きを持っていた。

「バラスト投下ラルゲ・レ・バラスト

 パイロットのアンリがスイッチを弾く。

 ガコン、という乾いた金属音が船外で響き、機体の左右に取り付けられていた数百キログラムの鉄塊が切り離された。

 重力からの解放。

 それまで海底の泥に引き寄せられていたノティール号は、ふわりと浮力を取り戻し、ゆっくりと、しかし確実に上昇を開始した。

 深度三四五メートル。

 窓の外の景色が下へと流れていく。

 泥に埋もれた編上靴も、引きちぎられた第四スクリューも、逆さまの艦尾も、そして黄金の菊の紋章も、すべてが永遠の闇の中へと遠ざかっていく。

 上昇速度、毎分四〇メートル。

 エレベーターほどの速度で、彼らは「死者の国」から「生者の国」へと帰還する。

 船内キャビンには、深い沈黙が満ちていた。

 往路の緊張感とは違う。それは、あまりにも巨大な悲劇を目撃し、その重みを一身に受け止めた者だけが共有する、厳粛な静けさだった。

 日本人オブザーバーの賢治は、膝の上のノートPCを閉じた。画面が消え、黒い液晶に自分の疲労しきった顔が映る。

 終わったのだ。

 一九九九年八月。二〇世紀最後の夏に行われた、戦艦大和の潜水調査は、これですべての工程を完了した。

 深度二〇〇メートル。

 完全なミッドナイト・ゾーンを抜け、薄明トワイライト・ゾーンへ。

 窓の外の色が、漆黒から濃紺へと変わる。

 それは、インクを水に垂らしたように、じわりと視界を青く染めていく。

 深度五〇メートル。

 鮮やかなコバルトブルー。

 太陽の光が、揺らめくカーテンのように降り注ぐ。

 まぶしい。

 深海になじんだ目には、その光は暴力的なまでに美しく、そして暖かかった。

 バシャン!

 激しい飛沫と共に、ノティール号は海面へと踊り出た。

 アクリル窓越しに見えるのは、突き抜けるような青空と、入道雲。そして、彼らを待ち受ける母船「ナディール」の白い船体だった。


 ハッチが開けられ、湿った、しかし新鮮な外気が流れ込んでくる。

 潮の匂い。エンジンの排気ガスの匂い。

 それが、生きている世界リアルの匂いだった。

 調査の終了は、新たな戦いの始まりでもあった。

 母船ナディールのデータ解析室ラボ

 そこでは、連日連夜、徹夜での作業が続いていた。

 今回、ノティール号と無人探査機ロビンが持ち帰った成果は膨大だった。

 数百時間に及ぶハイビジョン映像。

 数万枚のスチル写真。

 そして、ソナーによる海底地形の高精細スキャンデータ。

 それらは、バラバラのパズルのピースに過ぎない。

 解析チームの任務は、この無秩序な断片を繋ぎ合わせ、一つの「真実」を構築することだ。

「ソナーマッピング、結合完了。……出ます」

 技術スタッフの声と共に、大型モニターに一枚の「地図」が表示された。

 『戦艦大和沈没状況図』。

 

 息を呑むような光景だった。

 海底の泥の上に、巨大な船体が二つに折れて横たわっている。

 北側に横転した艦首部分。

 南側に裏返しになった艦尾部分。

 その間を埋める、おびただしい数の瓦礫の帯。

 それまで「点」でしか把握できていなかった大和の最期の姿が、初めて「面」として、完全な全体像として可視化されたのだ。

「シミュレーション班、状況はどうだ?」

 総括責任者が問う。

「第四スクリューの欠損データを入力し、転覆プロセスを再計算しました。……整合性が取れます」

 画面上で、ワイヤーフレームの戦艦大和が動き出す。

 一九四五年四月七日、一四時過ぎ。

 左舷への魚雷集中被雷。注排水システムによる復原の限界。

 そこへ、右舷後部への決定的な一撃――第四スクリュー付近への被雷と、推進軸の脱落。

 バランスを失った巨体は、急速に左へ傾斜を深める。

 一四時二三分。転覆。

 キールが空を向いた瞬間、弾薬庫内で主砲弾が崩れ落ち、あるいは火災が誘爆を引き起こす。

 閃光。

 船体中央部が内側から弾け飛び、艦首と艦尾が引きちぎられる。

 艦首は横滑りしながら、艦尾は回転しながら、それぞれ別々の軌道を描いて深海へと没していく。

 途中、支えを失った主砲塔が脱落し、先行して海底に突き刺さる。

 モニターの中で、デジタルデータの巨艦は、何度でも死に、何度でも沈んでいった。

 だが、それは単なるCGではない。

 物理法則と、海底に残された物証によって裏付けられた、紛れもない「史実」の再現だった。

 なぜ大和は沈んだのか。なぜあのような姿で海底にあるのか。

 その問いに対する、科学からの回答アンサーがここにあった。

 帰港後の記者会見場。

 そこは、無数のフラッシュが焚かれ、まるで機銃掃射のようなシャッター音が鳴り響く「光の戦場」だった。

 演壇に立った調査団の代表は、少し眩しそうに目を細め、マイクを握った。

「我々が見つけたのは、単なる鉄の塊ではありませんでした」

 会場のざわめきが静まる。

 背後のスクリーンに、あの「菊の紋章」の写真が映し出された。

 泥にまみれながらも、鈍い黄金色を放つ一六枚の花弁。

 そして、ひっそりと佇む編上靴の写真。


「二〇世紀という激動の時代。その象徴であった巨大戦艦は、三三三二名の若者たちの命と共に、今も冷たい海の底に眠っています。……我々が持ち帰ったのは、彼らの『生きた証』です」

 代表は言葉を選びながら続けた。

 七〇年という歳月は、鋼鉄さえも腐食させ、人々の記憶を風化させる。

 当時を知る人々は年々減り、戦争は「歴史の教科書の中の出来事」になりつつある。

 だからこそ、この調査が必要だったのだ。

 あの場所に、圧倒的な質量を持った「事実」があることを、映像とデータで突きつけること。

 「大和は確かに存在した」

 「そこで多くの人が死んだ」

 その重みを、物質的な証拠として現代に蘇らせること。

「このデジタルアーカイブは、錆びることはありません。一〇〇年後、二〇〇年後の未来の人々も、我々と同じように、この海底の光景を目撃することができるでしょう」

 モニターに映る大和の姿。

 それは、もはや単なる沈没船ではなかった。

 昭和という時代が遺した、巨大な墓標であり、二度と繰り返してはならない悲劇のモニュメントとして、デジタル空間に永遠の命を与えられたのだ。


 エピローグ。

 すべての公式行事を終え、賢治は一人、港の桟橋に立っていた。

 夕暮れの海は、穏やかななぎに包まれている。

 あの水平線の彼方、はるか南の海中に、大和は眠っている。

 今回の調査で、多くの謎が解明された。

 しかし、すべてが分かったわけではない。

 なぜ第一戦隊司令部は退艦しなかったのか。最期の瞬間に何が語られたのか。

 物言わぬ遺品たちは、その答えまでは教えてくれない。

 それは、これからを生きる我々が、想像力を働かせ、考え続けなければならない問いなのだ。

 賢治はポケットから、海底から採取した小さな錆びたボルトを取り出した。

 空気に触れ、急速に赤茶けていく鉄片。

 それは手のひらに乗るほど軽かったが、同時に、世界そのもののように重かった。

「……次は、誰かが引き継ぐだろう」

 賢治は呟いた。

 技術は進歩する。

 一九八五年の発見、一九九九年の今回の調査。


 そして間違いなく、二一世紀になれば、より高度な技術を持った新しい世代が、再びあの場所を目指すはずだ。

 二〇一六年、あるいはその先へ。

 ハイビジョンを超える4K、8Kの映像技術、より精密な自律型ロボット。

 それらが、さらなる真実を明らかにする日が来るだろう。

 だが、どんなに技術が進んでも、変わらないものがある。

 それは、あの深海に眠る魂への畏敬の念だ。

 ノティール号の小さな窓から見た、あの「靴」の孤独。

 それを見つめる眼差しだけは、いつの時代の調査員であっても変わらないはずだ。

 賢治はボルトを強く握りしめ、そして胸のポケットにしまった。

 海風が強くなってきた。

 二〇世紀が終わろうとしている。

 戦艦大和は、過去のものとなった。

 しかし、その記憶は今、鮮明なデータとして刻まれ、未来へと継承された。

 「さようなら、大和。……そして、また逢う日まで」

 賢治は海に向かって静かに一礼すると、きびすを返した。

 背後の海は、夕闇に溶け込み、やがて来る新しい世紀の夜明けを静かに待っていた。


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