第165章 第5章:戦術核の解放
視点:ジェームズ・"マック"・マカリスター中佐
所属:アメリカ海軍 ロサンゼルス級原子力潜水艦 SSN-698《ブレマートン》
場所:バレンツ海、深度220メートル(回避機動中)
日時:1983年11月7日 09:15 Z
艦体が悲鳴を上げていた。
「第2区画、油圧系からの油漏れ! 鎮火しましたが、煙が充満しています!」
「ソナー・ドーム(Sonar Dome / 艦首の聴音装置カバー)損傷! パッシブ感度、30%低下!」
マカリスターは、発令所(Conn)の頭上の配管から滴り落ちる結露か冷却水かわからない液体を拭った。衝突の衝撃は、艦の神経系である電子回路をズタズタに引き裂いていた。
だが、本当の恐怖は艦内ではなく、艦外にあった。
「ソナー、接触(Contact)報告!」
ヘッドセットから、恐怖で裏返ったソナー員の叫び声が飛び込んでくる。
「シエラ3、シエラ4、高速で接近中! 水上艦です! スクリュー音から……ウダロイ級駆逐艦(Udaloy-class destroyer / ソ連海軍の対潜能力強化型駆逐艦)と推定! 距離8,000ヤード!」
ウダロイ級。対潜ヘリコプター2機と、強力な低周波ソナー、そして対潜ミサイルを満載した「潜水艦殺し」だ。先ほどの衝突事故で損傷したヴィクターIII級が、救援信号を発したに違いない。
今やバレンツ海は、傷ついた獲物に群がるサメの海と化していた。
キィィィィン!
再び、アクティブ・ソナーのピン(Ping)が船体を叩く。今度は捜索用(Search Mode)の間欠的な音ではない。攻撃用(Attack Mode)の、脳髄を直接かき回すような連続音だ。
「ロックオンされました! 奴ら、撃ってきます!」
「欺瞞装置(Countermeasures)、射出! 面舵一杯、深度400フィートへ!」
マカリスターが叫ぶと同時に、海面上が爆発したような音が響いた。
ザザザザザッ!
「ロケット入水音! RBU-6000(Smerch-2 / 12連装対潜ロケット深弾発射機。無誘導だが、面制圧能力が高い)です!」
数秒後。
《ブレマートン》の周囲で、連続的な水中爆発が発生した。
ドォォン! ドォォン! ドガァァァン!
衝撃波がハンマーのように船体を殴りつける。照明が落ち、非常灯の赤い光だけが揺れる。
近くない。直撃ではない。だが、この距離でこれだけの衝撃ということは、敵は本気で沈めにきている。警告射撃ではない。
「損害報告!」
「機関室、復水器(Condenser / 蒸気を水に戻す装置)の真空度低下! 出力60%へ低下!」
逃げ切れない。
マカリスターは冷徹な計算をした。損傷した船体、低下した聴音能力、そして頭上には最新鋭の対潜駆逐艦が複数。
ここで背中を見せて逃げれば、アスロック(ASROC / 米軍の対潜ミサイル)のソ連版であるRPK-3《メチェル》の餌食になる。
「武器管制(Weops / Weapons Officer)、反撃用意」
マカリスターは決断した。「脅威を排除し、離脱する」
「アイ・サー! 戦闘配置(Battle Stations Torpedo)!」
武器士官のコワルスキー大尉がコンソールに覆いかぶさる。「1番、2番発射管、Mk48 ADCAP(Advanced Capability / 高性能誘導魚雷)、装填完了!」
「待ってください、艦長」コワルスキーが焦燥した顔を向けた。「敵は複数です。ウダロイ級が2隻、さらに遠方にクリヴァク級(Krivak-class frigate)もいます。Mk48の斉射(Salvo)では、飽和攻撃に対処しきれません!」
「ではどうしろと言うんだ、大尉」
「チューブ3と4に、"スペシャル"が入っています」
その言葉に、発令所の空気が凍りついた。
"スペシャル"。核兵器の隠語だ。
《ブレマートン》には、冷戦下の標準装備として、UUM-44 SUBROC(Submarine Rocket / 潜水艦発射対潜ミサイル)が搭載されていた。魚雷発射管から射出され、海中から空へ飛び出し、超音速で飛翔した後、敵潜水艦や水上艦隊の頭上に着水、W55核弾頭(出力1〜5キロトン)を起爆させる兵器だ。
「SUBROCを使えば、一撃で海域の敵艦隊を無力化できます。爆雷の衝撃波で、奴らのソナーも数時間は使い物にならなくなる」コワルスキーの目は血走っていた。「自衛のためです! 奴らが次のRBUを撃つ前に!」
「許可できん」マカリスターは即答した。「核の使用権限(Release Authority)は大統領にある」
「通信は不通(Comm Blackout)です!」コワルスキーが叫んだ。「EMPかジャミングか知りませんが、外部とは繋がりません! 独立行動(Autonomous Operation)の規定では、艦の生存が極めて危ぶまれる場合……」
ドガァァン!!
至近距離で爆雷が炸裂した。艦が激しく横揺れし、マカリスターは潜望鏡スタンドに叩きつけられた。誰かの悲鳴。火花。
「浸水! 機関室、メインシャフトのシール(密封装置)より浸水!」
「艦長! 次は直撃します!」コワルスキーの手が、Mk 117水中火器管制システムの「兵装選択スイッチ」にかかっていた。彼の指は、震えながらも確実に「Tube 3: NUCLEAR」のセーフティカバーを開けようとしていた。
恐怖だ。
高度に訓練された将校でさえ、死の恐怖と閉鎖環境のストレスが重なれば、論理的な判断力を失う。彼にとって、目の前のコンソールにある「生き残るためのボタン」を押さない理由は、急速に薄れていた。
マカリスターは体勢を立て直し、コワルスキーに掴みかかった。
「やめろ、ジェリー!」
マカリスターは部下の胸倉を掴み、コンソールから引き剥がした。「そのボタンを押せば、我々は助かるかもしれん。だが、世界が終わる!」
「でも、殺されます!」
「海軍士官として死ね!」マカリスターは怒鳴った。「核戦争の引き金を引いた臆病者として生き残るくらいなら、ここで藻屑になった方がマシだ!」
二人の視線が交錯する。
赤い非常灯の下、コワルスキーの目から狂気が引いていき、絶望的な理解が戻ってきた。
「……アイ、サー」コワルスキーは崩れ落ちるように手を離した。「核(Special)の使用を中止します」
「1番、2番、発射!」マカリスターは間髪入れずに命じた。「Mk48、モード・サークル(Circle Search / 旋回捜索モード)! ワイヤーカット(Wire Cut / 誘導用有線切断)! 騒音メーカー(Noisemaker / 囮魚雷)として使え! その隙に全速でサーモクラインの下へ潜る!」
シュッ、シュッ。
圧縮空気が解放され、2本の魚雷が発射管を飛び出した。
それは敵艦を撃沈するためではなく、巨大な騒音を撒き散らし、敵のソナーを攪乱するための「盾」だった。
「取舵一杯! 最大戦速! 深度1200(約360メートル)!」
《ブレマートン》は軋む船体を限界までねじり、深海へと急降下を始めた。
頭上で、Mk48の爆発音と、それに反応したソ連艦隊の猛烈な対抗射撃の音が交錯する。海中はカオス(混沌)の坩堝と化した。
マカリスターは、発射管室の状況表示盤(Status Board)を睨んだ。
3番発射管のインジケーターは、まだ琥珀色に光っていた。
[LOADED: UUM-44 / W55 WARHEAD]
あと数センチ。コワルスキーの指が数センチ動いていれば、バレンツ海の上空にキノコ雲が上がり、それが「第三次世界大戦開始の狼煙」となるところだった。
戦術核兵器(Tactical Nuke)。それは「使いやすい」がゆえに、最も危険な誘惑だった。現場の指揮官の恐怖心が、国家戦略のハードルを容易に飛び越えてしまうのだ。
「……生き延びたか」
ソナー員が、敵艦のスクリュー音が遠ざかっていくのを報告した。彼らは囮の魚雷を追っている。
だが、マカリスターの胸に安堵はなかった。
ソ連側は「米潜水艦が魚雷を発射した」事実を確認したはずだ。それが自衛のためであろうと囮であろうと、攻撃には変わりない。
この事実は、クレムリンの机上でどう報告されるのか?
「艦長」通信士が青ざめた顔で近づいてきた。「VLF(Very Low Frequency / 超長波。水中通信可能な周波数)アンテナが、微弱な信号を拾いました」
「司令部からか?」
「いえ……EAM(Emergency Action Message / 緊急動作指令)のプリアンブル(前文)です。宛先は全艦隊(All Stations)。発信元は……」
通信士は唾を飲み込んだ。
「……空中作戦センター(Looking Glass / 空軍の空中指揮機)からです。地上局ではありません」
地上局が沈黙し、空中指揮機が指揮を執っている。
それは、地上の司令部がすでに機能していないか、あるいは攻撃を受けていることを示唆していた。
マカリスターは、3番発射管の核ミサイルを見た。
「結局、これを使う羽目になるのか」
深海の冷たい闇の中で、彼は見えない「次の一手」に震えた。
(第5章 完)




