第160章 『暇つぶしサークルと、終末へのアルゴリズム』
【シーン1】
店内は夕方のピークタイムを過ぎ、まばらな客入りだ。
ドリンクバーのコーヒーマシンの前で、野本(丸眼鏡、オーバーオール)が、抽出される液体を無表情で見つめている。
富山(バイト仲間、明るい茶髪)
「あ、野本さん。休憩入った?」
野本
「はい、富山さん。今、カフェインという名の燃料棒を炉心に装填しているところです」
富山
「相変わらず言い回しが重いねえ。……で、どうなの? あの小説。潜水艦のやつ」
野本は席に戻りながら、テーブルに置かれた分厚いクリアファイルを開いた。
野本
「先ほど、脱稿しました。USSは、無事にコネチカット州グロトンへ帰港。マカリスター艦長は、核戦争の危機を回避し、静かに車のキーを回して家路につきました」
そこに、お冷のピッチャーを持った亀山(バイト仲間、中年女性)が通りかかる。
亀山
「あら、終わったの? よかったわねえ。私、あの艦長さんが『急速潜航!』って叫ぶシーン好きだったわよ。なんかこう、スーパーのタイムセールに突入する時の私の心境と似てて」
野本
「亀山さん、それは光栄です。しかし、今回のラストは静寂です。派手な凱旋パレードも、勲章授与式もありません。ただ、日常に戻る。それだけです」
富山
「ふーん。なんか地味じゃない? 最後くらい、ドカーンと花火上げるとかさ」
野本はコーヒーを一口啜り、眼鏡の位置を直した。
野本
「富山さん。潜水艦乗りにとって、最大の報酬は『無音』なんです。彼らが深海で命を削って守ったのは、私たちがこうしてドリンクバーでメロンソーダとカルピスを混ぜて『新しい味』とか言っている、この取るに足らない平和な日常なんですよ」
亀山
「深いわねえ。……あ、3番テーブルさんが呼んでる。行ってくるわ」
亀山が小走りで去っていく。野本は手元の原稿用紙の最後の一行、『極点の静寂、完』の文字を指でなぞった。
野本
「……ですが、平和とは退屈なものです。読者とは業が深い生き物で、静寂が訪れた瞬間に、次の騒乱を求めてしまう」
富山
「野本さんが一番、騒乱を求めてる顔してるけどね」
野本
「否定しません。……次は、この『日常』が、たった一つのボタンの掛け違いで消し飛ぶ話を書きたいと思います」
【シーン2:某大学 サークル棟 「暇つぶしサークル」部室】
部室の空気は淀んでいた。
小宮部長は長机の上で突っ伏し、橋本副部長は文庫本を読み、山田はスマホゲームに興じている。重子はコンビニの袋からポテトチップスを取り出していた。
野本がガラリとドアを開けて入ってくる。
野本
「お疲れ様です。……平和ですね」
小宮部長(顔だけ上げて)
「野本さん。平和すぎてカビが生えそうよ。この部室、時間の流れが外の世界の半分くらいのスピードになってる気がする」
橋本副部長
「部長が動かないからですよ。……で、野本さん。例の潜水艦小説、終わったんですか?」
野本
「はい。先ほど、世界を救ってきました」
野本はカバンから、さらに分厚くなった新しいプロットの束を取り出し、ドサリと机に置いた。その音に、全員の視線が集まる。
山田
「うわ、鈍器かよ。何その量」
野本
「次回作の構想です。タイトルは『臨界のアルゴリズム —— 終末への12段階』。文字数は5万字を予定しています」
重子(ポテチを咀嚼しながら)
「ご、5万字……? 野本さん、それ『暇つぶし』の範疇超えてない? 『人生の浪費』サークルになっちゃうよ」
野本
「重子さん、文学とは高尚な暇つぶしです。……今回のテーマは『1980年代の核戦争』。それも、偶発的な事故と相互不信が連鎖して起きる、救いのない破滅の物語です」
小宮部長
「破滅……。いい響きね。前の話はハッピーエンドだったんでしょ? つまんないわ」
野本
「部長のご期待に沿えるよう、今回は徹底的にやります。舞台は1983年11月。NATOの大規模軍事演習『エイブル・アーチャー83』が行われている最中、ソ連指導部はこれを本物の先制攻撃の準備だと勘違いしている。……そこへ、最新のテクノロジーが牙を剥くのです」
野本はホワイトボードの前に立ち、マーカーを手に取った。
野本
「いいですか、皆さん。冷戦という時代は、氷の上で二頭の巨象がダンスを踊っていたようなものです。お互いに『相手が動いたら踏み潰す』と身構えている。そこに、小さなネズミが一匹走っただけで、巨象はパニックを起こして氷を砕いてしまう」
橋本副部長
「そのネズミっていうのが、今回の事故ってわけですか」
野本
「ご明察です、橋本副部長。具体的には、バレンツ海での原潜同士の接触事故、そして早期警戒衛星の誤作動です」
山田
「あー、映画でよくあるやつ? 『ウォー・ゲーム』的な」
野本
「近いです。しかし、私の小説にマシュー・ブロデリックのようなハッカー少年は登場しません。登場するのは、胃潰瘍に悩むソ連の将校や、家族写真を見る暇もなく核ミサイルの発射キーを回すアメリカの軍人たちです。……リアルこそが、最高のホラーですから」
【シーン3:プロット会議という名のディストピア】
野本はホワイトボードに『RYaN』と大きく書いた。
重子
「リャン? 麻雀?」
野本
「いいえ、重子さん。ロシア語の『核ミサイル攻撃(Racketno-Yadernoe Napadenie)』の頭文字です。KGBが血眼になって行っていた、西側からの奇襲攻撃の予兆を探知するオペレーションです。……今回のヒロイン、エレナ・ロストワはこの分析官です」
小宮部長
「ふーん。そのエレナって子は、どんな服着てるの? 私、80年代のソ連のファッションには興味あるわ。全体主義的なグレーの中に潜む、わずかな個の主張というか」
野本
「彼女はKGB第1総局の人間です。おそらく地味なウールのコートに、スカーフくらいでしょう。しかし部長、彼女が見ているのはファッション誌ではなく、西側の血液銀行の在庫量や、公文書館の夜間活動量です。それらが『戦争の予兆』に見えてしまう、パラノイアの世界です」
橋本副部長
「……野本さん、君の知識の偏り方は相変わらず凄まじいね。で、そのエレナさんが勘違いして、報告書を上げちゃうわけ?」
野本
「そうです。確証バイアス、というやつです。『敵は攻撃してくるはずだ』と思い込んでいると、ただの演習も、ただの通信障害も、すべてが攻撃のサインに見えてくる。……そして、もう一人の主人公、アレクセイ・ヴォルコフ。彼は早期警戒センターで、衛星が捉えた『米軍のミサイル発射』の警報と対峙します」
山田
「それ、実際にあった話じゃなかったっけ? ほら、雲の反射をミサイルと間違えたとか」
野本
「お詳しいですね、山田さん。スタニスラフ・ペトロフ中佐の実話がモデルです。しかし、私の小説では……彼は止められません」
部室に一瞬、沈黙が落ちる。
重子がポテトチップスの袋に手を入れる音だけが、カサリと響いた。
重子
「えっ……止められないの? ってことは……」
野本
「撃ちます」
野本は無表情のまま、手にした黒のマッキーペンのキャップを、カチリと閉めた。
野本
「第1部『不協和音』で疑心暗鬼を種蒔きし、第2部『エスカレーション』で戦術核を使用。第3部『トリガー』で自動報復システム『死の手』が起動し、第4部『終末』で……世界は終わります」
小宮部長
「……徹底的ね。救いはないの?」
野本
「技術的な描写の美しさの中に、救いを見出してください。ICBMが大気圏を再突入してくる際の、空を裂くようなプラズマの輝きや、多弾頭が分離して降り注ぐ幾何学的な軌道。……滅びの美学です」
橋本副部長
「野本さん、君、美大志望だった部長の前で『美学』を語るとはいい度胸だね」
小宮部長
「いいえ、嫌いじゃないわよ。……エンディングはどうなるの? まさか『夢オチ』じゃないでしょうね?」
野本
「まさか。ラストシーンは『沈黙の冬』です。文明が崩壊し、煤煙に覆われた空の下、生き残った登場人物たちが、放射能の雪を見上げる。……前作の『極点の静寂』が希望の静けさだったのに対し、今作のラストは、死の静けさです」
野本は遠くを見るような目をした。
野本
「想像してみてください。今のこの会話も、Twitterも、Netflixも、明日のレポートの締め切りも、すべてが一瞬の閃光で蒸発してなくなる世界を。……ある意味、究極の『暇つぶし』からの解放かもしれません」
山田
「いや、解放されすぎだろ。俺はまだプレステで遊びたい」
重子
「私も、明日のランチのA定食が楽しみだし……」
野本
「その『A定食への執着』こそが、平和の象徴なのです、重子さん。ですが、今回の小説の中では、そのA定食は1万度の熱線で炭化します」
【シーン4:夕暮れのサークル棟】
チャイムが鳴り、大学構内に夕方の放送が流れる。
橋本副部長
「さて、そろそろ帰りますか。……しかし野本さん、そんな重い話を5万字も書く気力、どこから湧いてくるの?」
野本は原稿用紙を丁寧に鞄にしまいながら、ふと窓の外を見た。
夕焼けが街を赤く染めている。それは、どこか不吉なほどに鮮やかだった。
野本
「……恐怖、ですかね」
全員
「恐怖?」
野本
「はい。この世界が、あまりに脆いシステムの上に乗っていることへの恐怖です。私はそれを文字にしてシミュレートすることで、自分の中で飼い慣らそうとしているのかもしれません。……まあ、あるいは単に、潜水艦のソナー音や、ミサイルの発射シークエンスの手順マニアなだけという説もありますが」
小宮部長(あくびを噛み殺しながら)
「後者でしょうね、間違いなく。……ま、期待してるわよ。『臨界のアルゴリズム』。タイトルだけは本当にカッコいいし」
野本
「ありがとうございます、部長。では、今日は帰って、第1章の『バレンツ海の接触』から書き始めます。潜水艦同士がキスをするシーンからです」
富山(いつの間にか部室に来ていた)
「えっ、キスシーンあるの!? ラブコメ!?」
野本
「金属と金属が数千トンの質量でぶつかり合う、非常にハードコアなキスですが」
富山
「……野本さんの『ハードコア』の定義、一生理解できる気がしない」
部室の電気が消される。
「暇つぶしサークル」の面々は、それぞれの平和な日常へ、あるいはバイト先へ、三々五々と散っていく。
野本の頭の中では、すでに冷たいバレンツ海の深海で、ソナーの探信音が「ピン……ピン……」と鳴り響き始めていた。
それは、終わりの始まりを告げる、死のメトロノームだった。
(接続文章 完)




