第159章 第12章:浮上、そして日常へ(エピローグ)
1986年12月10日 19:00(東部標準時)
アメリカ合衆国 コネチカット州 グロトン沖
ブロック・アイランド海峡
「入港配置につけ」
1MC(艦内放送)が静かに告げた。戦闘配置の警報音とは違う、穏やかなトーンだ。
USSは、夜の帳が下りた海面を、浮上航行で進んでいた。
艦橋のトップには、マカリスター艦長と甲板士官(OOD)が立っている。
凍てつく北極の風とは違う、湿り気を帯びたニューイングランドの海風が、彼らの頬を撫でる。遠くに見えるニューロンドンの街明かりが、宝石のように輝いていた。
「美しいな」とマカリスターが呟く。
「はい、艦長。……陸の光を見るたびに、生きて帰ってきたと実感します」
OODが双眼鏡を下ろさずに答える。
海面下の閉鎖空間に数週間閉じ込められていた彼らにとって、水平線と星空、そして人工の灯りは、眩しすぎるほどの刺激だった。
「機関室、現在の出力は?」
「原子炉、低出力運転中。主復水器の真空度良好。推進用タービン、微速回転」
巨大なS6G加圧水型原子炉は、今や眠りにつこうとしていた。核分裂の連鎖反応を最小限に抑え、港内での繊細な操艦に必要な出力だけを生み出している。
機関制御室
「ディーゼル発電機、並列運転準備よし」
機関長(Cheng)が指示を出す。
万が一、狭い水路で原子炉がスクラム(緊急停止)した場合に備え、バックアップ用の非常用ディーゼル発電機を起動し、アイドリング状態にしておくのだ。
「フェアバンクス・モース(ディーゼル機関)、回転数安定。電圧、周波数、バス(母線)と同期」
ドッドッドッ……という低い振動が、船体の奥底から伝わってくる。それは原子力の静かなハム音とは違う、有機的な鼓動だ。
20:15
ニューロンドン海軍潜水艦基地 第2桟橋
巨大な黒い影が、タグボートに押されながら、ゆっくりとコンクリートの岸壁に近づいていく。
「1番係留索(ライン1)、投げろ!」
甲板員がヒービング・ライン(細い引綱)を岸壁のライン・ハンドラー(綱取り作業員)へ投げる。それに繋がれた太いナイロン製の係留索が、電動キャプスタン(巻き上げ機)の力で引き出されていく。
「スプリング・ライン(斜め方向に張る係留索)、緊張。……艦の行き足、止まります」
ギチギチと音を立ててロープが張り詰め、6,900トンの質量が静止した。
「係留完了。……機関停止」
マカリスターは、ブリッジからその様子を見下ろしていた。
桟橋には、家族たちの姿はない。到着予定時刻は機密であり、真夜中の帰港だ。出迎えは基地の作業員と、数人の警備兵だけ。
それが「サイレント・サービス(沈黙の艦隊)」の掟だ。
「総員、入港配置解除。……通常当直へ移行せよ」
機関室
「陸電接続準備」
ここからが、機関科員にとっての最後の仕事だ。
艦の生命線を、原子炉から陸上の電力網へと繋ぎ変える。
甲板上の接続ハッチが開かれ、岸壁から極太の電源ケーブルが何本も引き込まれる。
「ケーブル接続。……相回転(フェーズ・ローテーション:三相交流の波形の順番)確認。逆相なし」
もし相回転が逆なら、艦内のすべてのモーターが逆回転してしまい、大惨事になる。検相器の光が正常な回転方向を示している。
「陸電、受電。……ブレーカー投入!」
バチン! という大きな音が響き、電圧計の針が跳ねる。
「負荷移行完了。……原子炉、停止手順へ」
機関長が、制御棒操作員に頷く。
「全制御棒、挿入」
「全制御棒、挿入中。……ボトム・ライト(全挿入表示灯)点灯。……中性子束、減衰率正常」
「原子炉、未臨界。……崩壊熱除去モードへ移行」
核の炎が消えた。
これより艦は、ただの冷たい鋼鉄の塊となり、陸からの電気で呼吸を続ける。
21:30
艦長室
マカリスターは、パトロール・レポートの最終ページに署名をした。
任務:北極海における対潜哨戒および情報収集
結果:重要目標との接触およびデータ収集完了。損害なし。
彼はペンを置き、分厚いファイルを閉じた。
そこに「タイフーン級との交戦回避」や「核ミサイル発射シークエンスの阻止」といった劇的な言葉は記されない。すべては暗号化された別紙データの中に埋もれ、最高機密の棚にしまわれる。
世間にとって、今日は何も起きなかった平和な一日だ。
ニュースでは株価の変動や、スポーツの結果が報じられているだろう。
「それでいい」
マカリスターは立ち上がり、帽子を被った。
タラップを降り、冷たいコンクリートの桟橋に立つ。
振り返ると、《ヴァンガード》の黒い船体が、ナトリウム灯のオレンジ色の光に照らされて、巨大な海獣のように眠っていた。
その船体には、北極海の氷で削られた傷跡が、勲章のように無数に刻まれている。
コワルスキー先任兵曹が、舷門で当直日誌をつけていた。目が合うと、敬礼を交わす。
「おやすみ、先任。いい耳だった」
「おやすみなさい、艦長。……静かな夜です」
マカリスターは車のキーを取り出し、駐車場へと歩き出した。
背後で、潮騒だけが聞こえていた。
極点の氷の下で交わされた、世界を救うための「沈黙の会話」。
それを知る者は、この海と、彼らだけだった。




