第158章 第11章:静かなる撤退(デ・エスカレーション)
1986年11月28日 14:00(ズールー時間)
北極海 ガッケル海嶺南方
深度600フィート(約183メートル)
「データム(最後に確認された敵潜水艦の位置)より10マイル離脱。……敵影、なし」
航海長の報告は、囁くようでありながら、発令所の空気を劇的に変えた。
誰もが深く長く息を吐き、凝り固まった筋肉をほぐし始めた。死神の鎌が首筋から離れた瞬間だ。
「よろしい」
マカリスター艦長は、コンソールから身を離した。
「戦闘配置解除。ただし、静粛航行は維持せよ。アクーラが戻ってくるぞ」
《ヴァンガード》は今、戦場から逃げ出す泥棒のように、極めて慎重に足を忍ばせていた。速力は5ノット。スクリューの回転数は毎分30回転以下。
「コース変更。方位1-8-0。南へ向かう。……最短ルートで氷の下を出る」
「アイ・サー。コース1-8-0」
操舵手がヨークを動かす手つきは、赤子の頭を撫でるように優しかった。油圧舵取機の作動音が船体に響かないよう、急激な操作は厳禁だ。
第2区画 発令所 ソナー・コンソール
「シエラ・ツー(アクーラ)、戻ってきました」
コワルスキー先任兵曹が、画面の端を指差した。
「方位0-2-0。高速で接近中。……タイフーンの護衛に戻るようです。アクティブ・ソナーを散発的に打っています」
「我々に気づいているか?」
「いえ。……奴のソナー・ビームの『サイドローブ(副極)』を観測しました。メイン・ビーム(主極)は別方向を向いています」
(解説:サイドローブ / Side Lobe)
ソナーやレーダーのアンテナから発射されるエネルギーのうち、正面以外に漏れ出る微弱なエネルギー波。敵のサイドローブを探知できたということは、敵はこちらに気づいていないが、こちらは敵の出力や方向を把握できているという有利な状態にある。
「我々は奴の『ヌル・ゾーン(感度ゼロ領域)』にいます。このまま深度を変えて、サーモクライン(水温躍層)の下へ潜り込みます」
「よし。……奴らの家族の再会を邪魔するな。そっとしておいてやれ」
コワルスキーは、ウォーターフォール・ディスプレイ上の、アクーラとタイフーンの光点が重なり合うのを見届けた。
それは奇妙な光景だった。殺し合いを演じたばかりの敵艦に対して、ある種の敬意すら感じていた。彼らもまた、命令に従い、極限の環境で海と戦っているプロフェッショナルなのだ。
第3区画 機械室下層 生命維持装置室
戦闘配置が解除されると、艦内は日常の業務を取り戻し始めた。だが、それは戦闘中とは異なる種類の忙しさだ。
「CO2スクラバー(二酸化炭素除去装置)、吸着剤の再生サイクル開始」
機関科員(MM:Machinist's Mate)が、巨大な円筒形の装置のパネルを操作する。
長時間にわたる「ウルトラ・クワイエット(極静粛)」状態では、騒音が出る一部の空調機器や再生ファンを停止せざるを得ない。そのため、艦内の二酸化炭素濃度は許容限界ギリギリまで上昇していた。
「空気が重いな」
「ああ、頭が痛えよ。酸素発生装置(O2ジェネレーター)はどうだ?」
「『爆弾』か? 今、電解槽の電圧チェック中だ」
(解説:酸素発生装置 / Oxygen Generator)
海水を電気分解して酸素を作る装置。高圧の水素ガスも同時に発生するため、取り扱いを誤ると爆発事故につながることから、乗員たちは畏怖を込めて「ボム(爆弾)」と呼ぶことがある。
「水素濃度計、正常。……酸素生成再開。ベント(通気)開始」
シューッという微かな音と共に、新鮮な酸素がダクトを通じて艦内へ送り出される。
淀んだ空気が動き出し、オゾンと機械油、そして男たちの汗の混じった潜水艦特有の匂いが循環し始めた。それが、彼らにとっての「生存の香り」だった。
「スカベンジャー(排気処理装置)のフィルター交換も必要だ。静かにやれよ、レンチを落とすな」
彼らは油まみれの手で、黙々と作業を続けた。英雄的な行為ではないが、この空気がなければ、艦長もソナー員も窒息して死ぬだけだ。
艦長室
マカリスターは、狭い自室に戻り、洗面台で顔を洗った。
鏡に映る自分の顔は、出発時より10歳老け込んだように見えた。
彼はデスクの上の航海日誌を開き、ペンを取った。
1430Z。戦術状況終了。敵艦隊との接触を断つ。
我、これより帰投の途につく。
書くべきことは山ほどあった。
タイフーンの不可解な行動。
スラグショットによる発射テスト。
アクーラとの交戦回避。
しかし、彼はペンを止めた。
「……報告書には書けないこともある」
あの水中電話での会話。ボロディン艦長との、言葉にならない合意。
あれは、マニュアルにはない、人間同士の判断だった。もしAIや純粋な軍事ロジックだけで動いていれば、今頃世界は核の炎に包まれていただろう。
「艦長、キッチン(ギャレー)より。……コーヒーを淹れ直しました。いつもの『マッド(泥)』です」
ドア越しに、給仕係(MS:Mess Management Specialist)の声がした。
「マッド」とは、濃くて苦い、海軍特有のコーヒーの愛称だ。
「ありがとう。……もらうよ」
マカリスターは、熱いマグカップを両手で包み込んだ。
その温かさが、冷え切った指先から心臓へと伝わっていく。
「航海長、現在の位置は?」インターコムで尋ねる。
『氷縁域(MIZ)まであと4時間。そこで浮上し、VLFアンテナを展張。司令部(COMSUBLANT)へ状況報告(SITREP)を送信します』
「了解。……長い一日だったな」
『ええ。……ですが、全員無事です』
16:00
バレンツ海南部 氷縁域
頭上の氷が薄くなり、やがて消えた。
上方監視ソナーが、障害物のないクリアな海面を映し出す。
「深度150フィートへ。……潜望鏡深度へ」
《ヴァンガード》は、ゆっくりと上昇を始めた。
水圧計の針が戻っていく。船殻を締め付けていた数百気圧の重圧が消え、艦全体が伸びをするように軋んだ。
「潜望鏡、上げ」
マカリスターはグリップを握り、接眼レンズを覗き込んだ。
クロスヘア(十字線)の中に映ったのは、荒れ狂う灰色の波と、低い雲の間から差し込むわずかな太陽の光だった。
それは、美しく、荒涼とした、自由の世界だった。
「マスト(通信アンテナ)上げ。……衛星通信(SATCOM)確保」
通信士が報告する。
「暗号回線、確立。……世界と繋がりました」
数時間ぶりに、彼らは「孤独」ではなくなった。
だが、あの氷の下で起きたことは、彼らと、あのソ連の艦長たちだけの秘密として、深海に沈んでいくだろう。
(第11章 完)




