第117章 アメリカの兵役制度
~午後3時のアイドルタイム。客はまばら~
富山「あーあ、暇だねえ野本さん。そういえばさ、昨日テレビで『トップガン』やってたじゃん? トム・クルーズかっこよかったよねぇ。アメリカの軍人さんって、みんなあんな感じで国のために命かけてるのかな。」
野本「(シルバーを拭きながら眼鏡を押し上げる)富山さん。それはハリウッド的なバイアスがかかった非常にロマンチックな解釈です。現在のアメリカ軍、すなわち米軍(US Armed Forces)の実態は、愛国心というよりは、極めてドライな『巨大な雇用契約システム』と言うべきなんですよ。」
亀山「雇用契約? バイトと同じってこと? だったら時給いくらなのかしら。」
野本「亀山さん、時給ではありません。アメリカは1973年以降、徴兵制(Draft)を停止し、完全志願制(All-Volunteer Force)に移行しました。つまり、現在の米兵は全員、自分の意志で契約書にサインした『プロフェッショナル』なのです。しかし、その契約は我々のジョリーズのバイトとはわけが違います。」
富山「どう違うの?」
野本「一度サインしたら、原則として契約期間(通常4年〜6年)は絶対に辞められません。『店長、バックれます』は通用しないのです。もし脱走すれば、軍法会議にかけられ、不名誉除隊(Dishonorable Discharge)となり、その後の人生で再就職はほぼ不可能、場合によっては刑務所行きです。」
亀山「ひええ、ブラックバイトじゃないの!」
野本「いえ、逆にホワイトすぎるがゆえに人が集まるのです。これを『経済的徴兵制(Economic Conscription)』と呼ぶ社会学者もいます。アメリカには『GIビル(GI Bill)』という魔法の制度があるのです。」
富山「ジーアイビル? ビル・ゲイツの親戚?」
野本「違います。復員兵援護法のことです。簡単に言えば、軍に数年務めれば、除隊後の大学の授業料がタダになり、さらに生活費まで支給される制度です。アメリカの大学の学費は年間数百万〜一千万円とかかりますから、貧困層の若者にとって、軍隊は『人生逆転のための唯一の切符』なんですよ。」
亀山「なるほどねえ。体売って学費稼ぐみたいなもんか。切実だねえ。」
野本「そうです。だから、リクルーター(募兵官)はショッピングモールや高校に入り浸り、『君、大学に行きたくないか?』『世界を見たくないか?』と甘い言葉で勧誘するのです。入隊時には『ASVAB』という適性テストを受けさせられます。これで数学や科学の点数が良ければ整備兵や技術職に、点数が低ければ……最前線の歩兵に振り分けられる確率が高まります。」
富山「うわ、テストの点数で命の危険度が変わるの!? 勉強しといてよかったー。」
野本「さらに、アメリカ国籍を持っていない移民、つまりグリーンカード保持者なども、『軍に入れば市民権を早期に取得できる』という特典に惹かれて入隊します。まさに、自由の国アメリカの軍隊は、市場原理と格差社会が生み出したシステムそのものなのです。」
第二幕:大学のサークル部室にて
~「暇つぶしサークル」部室。小宮部長がけだるそうに窓の外を見ている~
小宮部長「野本、今日の日差しはなんだかアンニュイね。……そういえば、最近ニュースで『第三次世界大戦がどうたら』って騒いでるけど、もし戦争になったら、アメリカの若者はまた徴兵されるのかしら。ベトナム戦争の映画みたいに。」
野本「(分厚い洋書を閉じながら)部長、鋭い視点です。実はアメリカには、現在徴兵制は『ない』のですが、徴兵制を『いつでも再開できる準備』は完璧に整っているのです。」
橋本副部長「えっ、どういうこと? 廃止されたんじゃないの?」
野本「廃止ではなく『停止(Suspension)』に近い状態です。アメリカには『選抜徴兵登録制度(Selective Service System)』、通称『SSS』という恐ろしい名簿が存在します。」
小宮部長「SSS……。なんだか秘密結社みたいで美的だわ。」
野本「内容は美的ではありません。アメリカに住む18歳から25歳までのすべての男性は、市民だろうが不法滞在者だろうが、このSSSへの登録が法律で義務付けられています。名前、住所、ソーシャル・セキュリティ・ナンバーを政府に登録するのです。」
橋本副部長「登録しないとどうなるんだ?」
野本「建前上は25万ドルの罰金や禁錮刑ですが、実際にはもっと陰湿なペナルティがあります。連邦政府の職員になれない、大学の奨学金(FAFSA)が受けられない、移民なら市民権が取れない。つまり、登録しないとアメリカ社会で生きていけないように兵糧攻めにされるのです。」
小宮部長「なるほど。自由の国と言いつつ、首輪はついているのね。」
野本「その通りです。もし大規模な戦争が起き、大統領と議会が『徴兵復活』を決断すれば、この名簿を使って直ちに『くじ引き(Lottery)』が行われます。」
橋本副部長「くじ引き……?」
野本「ベトナム戦争の時も行われました。誕生日ごとにカプセルを引くのです。例えば『9月14日生まれ』が1番に引かれたら、全米の9月14日生まれの20歳男子が即座に徴兵されます。運命がボール一つで決まる。残酷ですが、ある意味で平等なシステムです。」
小宮部長「それ、歴史的にはどうだったの? 昔からそんなドライな感じ?」
野本「いえ、歴史を紐解くと、アメリカの徴兵制は常に『自由』と『強制』の矛盾と戦ってきました。例えば1863年の南北戦争。この時、初めて連邦レベルの徴兵が行われましたが、当時の法律は『300ドル払うか、身代わりを立てれば免除される』というものでした。」
橋本副部長「うわ、金で解決できたのかよ。」
野本「ええ。これに激怒したアイルランド系移民などの貧困層が、ニューヨークで大規模な暴動(Draft Riots)を起こし、街が数日間無政府状態になりました。映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』の題材にもなっていますね。アメリカ人にとって徴兵とは、建国以来、常に『忌み嫌うべき強制労働』であり、それをいかに回避するかという歴史でもあるのです。」
第三幕:大学の中庭にて
~重子と山田がスマホを見ながらダベっている。野本が通りかかる~
重子「あ、野本っちー。ねえ聞いてよ、ウチの弟がさ、留学したいとか言ってるんだけど、アメリカって危なくない? 銃社会だし。」
野本「重子さん、銃社会もリスクですが、今の若者にとっての最大のリスクは『リクルート危機』による甘い誘惑かもしれません。」
山田「リクルート危機? 就活の話?」
野本「軍の就活、つまり募兵の話です。今、アメリカ軍は歴史的な人手不足に陥っています。2023年度、陸軍は目標数を1万人以上も下回りました。なぜだか分かりますか?」
山田「そりゃあ、戦争したくないからだろ?」
野本「それもありますが、もっと根本的な問題です。国防総省のデータによると、17歳から24歳のアメリカ人の若者のうち、なんと約77%が『不適格』で、そもそも軍に入りたくても入れないのです。」
重子「えっ! 7割以上が入隊お断り? なんで?」
野本「主な理由は3つ。『肥満』、『薬物使用歴』、『犯罪歴・精神疾患』です。特に肥満は深刻で、ジャンクフード大国アメリカの安全保障上の最大の敵は、ロシアでも中国でもなく『カロリー』だと言われています。」
山田「マジかよ。軍隊に入るのもエリートなんだな……。」
野本「さらに『文化戦争』も影響しています。リベラルな若者は『軍は他国を侵略する悪の組織』だと嫌い、保守的な家庭の若者は『最近の軍はポリコレ(Woke)に配慮しすぎて弱腰だ』と失望している。左右両方からそっぽを向かれ、軍は今、入隊ボーナスを最大5万ドル(約750万円)積んでまで、必死に人を集めているのです。」
重子「750万! やば、弟に行かせようかな。」
野本「お勧めはしませんが、もし行くなら『州兵(National Guard)』という選択肢もありますよ。」
山田「なにそれ? 警備員?」
野本「いいえ、普段は一般市民として働き、月に一度の週末と、年に2週間の合宿訓練だけを行う『パートタイムの兵士』です。州知事の指揮下で災害救助などを行いますが、イラク戦争のような有事には連邦軍に編入されて最前線に送られます。彼らは『週末の戦士(Weekend Warriors)』と呼ばれますが、実際には正規軍と同等の激戦を経験することも多いのです。」
第四幕:再びファミレス「ジョリーズ」にて
~夜のピークタイムが終わり、片付けをしている~
亀山「へぇ〜、野本さんの話を聞いてると、アメリカって国は本当に合理的というか、なんでも金と契約で解決しようとするんだねえ。」
野本「(伝票を整理しながら)そうです、亀山さん。アメリカの兵役制度を理解することは、アメリカという国家の『OS』を理解することに他なりません。」
富山「オーエス?」
野本「はい。第二次世界大戦までの『国民皆兵による愛国心』というモデルが崩壊し、ベトナム戦争での反戦運動を経て、1973年にフリードマンら経済学者の提言で『軍隊の民営化・市場化』へと舵を切った。彼らにとって自由とは、『国に奉仕させられない自由』であり、国防すらも『適正な対価でアウトソーシングする業務』になったのです。」
野本「しかし今、その市場原理が、肥満や格差、国民の分断によって機能不全に陥りつつあります。ウクライナ戦争のような消耗戦が起きた時、果たして『契約』だけで集まった兵士が、愛国心や強制力で動員された他国の軍隊に勝てるのか。アメリカは今、建国以来の大きな矛盾に直面しているのですよ。」
富山「……野本さん。」
野本「はい、何でしょうか。」
富山「その熱弁のあとで言いにくいんだけど、さっき野本さんが片付けた3番テーブル、シルバーセット忘れてるよ。」
野本「……! 不覚です。ただちに是正措置を講じます。」
亀山「あはは、野本さん、戦場だったら撃たれてるよ〜。」
野本「(小走りで戻りながら)ジョリーズが戦場でなくて本当によかった……。平和こそが、我々庶民にとって最大の福利厚生なのです。」
(完)




