第116章 第5章『ジョリーの午後』
最終章:ジョリーの午後 (Afternoon at Jolly's)
「……野本さん?」
「ねえ、野本さんってば!」
「ポテト冷めちゃうよ? 食べないの?」
パチッ。
視界が弾けた。
灰色の天井も、静かすぎる団地の一室も、見守りロボットも消え失せた。
目の前にあるのは、油でギトギトになったバスケットに入ったフライドポテト。
耳に飛び込んでくるのは、隣の席の赤ちゃんの泣き声と、BGMの安っぽいジャズ。
そして、鼻をくすぐるのは、ドリンクバー特有の甘ったるいシロップの匂い。
野本
「……あれ?」
私は、野本。22歳。菊水大学文学部の学生。
手元を見ると、しわくちゃの老婆の手ではなく、ボールペンでメモ書きだらけになった自分の手がそこにあった。
富山
「もうー、野本さん! どこ行ってたのよ意識! 怖い顔して一点見つめてたよ?」
目の前には、茶髪で、派手なネイルをした富山がいる。
彼女の顔には「生活の疲れ」も「派遣切りの絶望」もなく、ただ「ポテト食べたい」という欲望だけが浮かんでいる。
野本
「……富山、さん? 生きて、ますか?」
富山
「はあ!? 殺さないでよ! めっちゃ生きてるし! これから新作のコスメ買いに行くし!」
テーブルの周りを見渡す。
そこには、小宮部長がスケッチブックに落書きをし、橋本副部長がスマホゲームをし、山田と重子がドリンクバーの配合について議論している。
誰も禿げていないし、誰も過労で倒れていないし、誰も孤独死していない。
野本
「……なるほど。これは『ジョリー』ですね。現在時刻は……」
亀山
「はいよ、ポテトのおかわり。クーポンで半額ね」
元気な亀山さんが、ドンと新しいポテトを置いた。
野本
「亀山さん……! 生きてらしたんですね……!」
亀山
「あんたねぇ、さっきから失礼ね。私がそう簡単にくたばるもんですか。あと30年はレジ打ち続けるわよ」
野本
野本は、深く息を吐き出し、眼鏡の位置を直した。
脳内のスーパーコンピュータ(妄想機能)が、急速にクールダウンしていく。
野本
「……失礼しました。どうやら私、少し長めのシミュレーションに没入していたようです」
小宮部長
「シミュレーション? ……ああ、さっき野本が語り始めた『私たちの未来予想図』のことか」
重子
「凄かったよね……。私、過労で適応障害になって、最後は療養所行きなんでしょ? リアルすぎて胃がキリキリしたよ」
山田
「俺なんて『消息不明』だぞ! 扱い雑すぎない!?」
富山
「私なんて派遣切りでホームレス寸前じゃん! 酷いよ野本さん、もっとこう、石油王と結婚するとかいうルートはないの!?」
野本
「申し訳ありません。現在の日本の経済指標、労働法制の実態、および皆様の学力と性格パラメータを入力して演算した結果、**『生存率ギリギリのバッドエンド』**が最も蓋然性が高いという結論に至りました」
橋本副部長
「嫌な演算だな! ……でもまあ、俺だけ公務員で勝ち組だったのは悪くないけど」
小宮部長
「橋本、君は熟年離婚して孤独な老後だったはずだが?」
橋本副部長
「うっ……。それも嫌だなぁ」
野本
野本は、メロンソーダを一口飲んだ。
強烈な甘さと炭酸が、脳に糖分を行き渡らせる。
(ああ、味がある。美味しい)
野本
「……それで。私たちはそもそも、なぜこんな絶望的な話をし始めたのでしたっけ?」
重子
「えっと……確か、来週提出の『現代社会論』のレポート課題が『日本の未来について論ぜよ』だったから……」
山田
「みんなでアイデア出し合おうぜって集まって……気づいたら野本さんの独演会が始まって、もう4時間経ってる」
野本
「4時間。……なるほど。私たちは『日本の未来』を憂うあまり、貴重な『現在』を4時間も浪費したわけですね」
小宮部長
「フッ……。だが、これぞ『暇つぶし』の真髄ではないか。
生産性ゼロ。得られたのは徒労感と、将来への漠然とした不安のみ。
……最高に贅沢な時間だ」
富山
「よくないよ! レポート全然進んでないじゃん! 私、単位ヤバいんだってば!」
亀山
「あんたたち、つべこべ言わずに食べなさいよ。ポテト冷めるわよ」
みんなが一斉にポテトに手を伸ばす。
「あ、それ長いやつ! 私の!」「橋本くん二本取ったズルい!」
そこにあるのは、醜い奪い合いではなく、平和なじゃれ合いだ。
野本
野本は、その光景を眺めながら、一本のポテトを口に運んだ。
塩辛くて、油っこくて、体に悪そうな味。
でも、これが「生きている」味だ。
野本(独白)
私たちはまだ、何者でもありません。
クダクラゲでもなければ、壊れた歯車でもない。
ただの、時間を持て余した学生です。
確かに、未来は暗いかもしれません。
黒いスーツを着る日は来るでしょうし、理不尽な上司に出会うかもしれません。
老後は孤独かもしれません。
でも、少なくとも「今」この瞬間には、ドリンクバーがあり、半額のポテトがあり、そして馬鹿話につきあってくれる仲間がいます。
富山
「あーあ。就活したくないなー。ずっとこのままでいたいなー」
野本
「富山さん。物理学的には、エントロピーは増大し、時間は不可逆です。
つまり、私たちは強制的に前に進まされます」
富山
「うわ、また難しいこと言った!」
野本
「ですが……。
もし辛いことがあったら、またここに集まればいいのではないでしょうか。
そして、今日みたいに、ドリンクバーで粘りながら、
『上司がムカつく』とか『税金が高い』とか、生産性のない愚痴を4時間言い続けましょう」
重子
「……そうだね。それなら、生きていけそうかも」
山田
「じゃあ、とりあえずレポートは『未来は暗いが、ポテトは美味い』で提出するか」
橋本副部長
「F判定不可避だな」
全員
「あはははは!」
ファミレスの窓の外、夕暮れの空が広がっている。
それは、絶望的な灰色ではなく、明日への希望を含んだ、優しいオレンジ色だった。
野本
「亀山さん、メロンソーダのおかわり行ってきます」
亀山
「はいよ。氷少なめでしょ? 分かってるわよ」
私は、野本。
菊水大学の学生。ファミレスのバイト。
将来の夢はまだ未定ですが、とりあえず今は、この温かいポテトを完食することが、私の最大のミッションです。
(完)




