第8章 喧嘩の始まりと、逃げない男
親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。ただこの世界で、強きを助け弱きを挫くという、卑怯な真似を見るのが何より癪に障るからだ。
あれはまだ余所では雪も降ろうかという、二月の終わりのことだ。
俺はその夜、宿直当番で、薄暗い学校の宿直室に万年床を敷いて寝転んでいた。相棒は、数学主任の山嵐だ。この男は図体ばかり大きくて、会議のたびに正論を吐いては狸(校長)を困らせているが、腹の中はさっぱりした気持ちのいい男だ。
部屋の隅にあるテレビが、朝から晩まで同じニュースを喚き散らしている。北の巨国ロシアが、隣のウクライナへ戦車を押し出したとかいう騒ぎだ。
「おい、山嵐。こいつは酷いな。まるで中学生が寄ってたかって、幼稚園児をいじめるようなもんじゃねえか」
俺が煎餅を齧りながら言うと、山嵐は腕組みをして、難しい顔で画面を睨みつけている。
「全くだ。プーチンとかいう親分は、三日で片を付けるつもりらしいぞ。首都のキーウなんてのは、今夜にでも落ちるかもしれん」
「三日? 冗談じゃねえ。喧嘩ってのは、始めてみなくちゃ分からねえもんだ」
テレビの中では、世界中の偉いさんたちが「大統領は逃げろ」「亡命政府を作れ」と、余計な世話を焼いている。アメリカなんぞは親切ごかしに「逃げるための飛行機を用意してやる」と言ったそうだ。
その時だ。画面に映ったウクライナの大統領――ゼレンスキーとかいう小柄な男が、カーキ色のTシャツ一枚で言い放った言葉がテロップで流れた。
『私が欲しいのは逃走用の乗り物ではない。弾薬だ(I need ammunition, not a ride)』
山嵐が、バシッと膝を叩いた。
「聞いたか君! こいつは痛快だ。江戸っ子じゃねえが、べらんめえ調だ。乗り物はいらねえ、弾をくれ、とは恐れ入った」
「ああ、気に入った。トップが真っ先に逃げ出すような根性なしじゃあ、下の者はついて行かぬ。こいつは逃げも隠れもせんようだ」
続いて画面には、夜の街頭で、大統領が側近たちと並んで自撮りをした映像が流れた。「我々はここにいる(Tut)。軍も市民も、我々はここにいる」と、ただそれだけを言っている。街灯の薄明かりに照らされたその顔は、寝不足で浮腫んではいたが、眼光だけはギラギラしていた。
ガラリと戸が開いて、赤シャツが入ってきた。その後ろから野だいこが金魚のフンのようにくっついてくる。赤シャツは教頭で、一年中赤のシャツを着ているハイカラ野郎だ。声が猫撫で声で、どうも虫が好かない。
「おや、まだ起きていらっしゃいましたか。物騒なニュースばかりで、眠れませんねえ」
赤シャツは琥珀のパイプを弄びながら、テレビのゼレンスキーを顎でしゃくった。
「しかし、彼もなかなかの役者だ。元コメディアンだそうじゃありませんか。あのTシャツ姿も、無精髭も、すべて計算された演出ですよ。西側の同情を引くためのね」
野だいこがすかさず相槌を打つ。
「ええ、全くですな。ピアノを弾く真似をして笑いを取っていた芸人が、一国の主とは世も末だ。どうせ裏では、アメリカの脚本通りに喋ってるんでしょうよ」
俺はカッとして起き上がった。
「おい、吉川(野だいこ)。芸人がどうしたってんだ。職業に貴賎はあるめえ。それに、今まさにミサイルが頭の上を飛んでるって時に、演出も芝居もあるもんか。あれは死ぬ気だぞ」
「まあまあ、坊っちゃん」
赤シャツが気取った手つきで俺を制した。
「君は純粋だから、すぐに感情移入してしまう。あれは『情報戦』というやつです。SNSを駆使して、世界中を味方につける。現代の戦争は、血を流す前にイメージで勝負が決まるんですよ。賢いやり方ですが、いささか鼻につく」
山嵐が唸り声を上げた。
「フン、理屈はどうでもいい。俺は、自分の家に強盗が入ってきた時に、逃げずに玄関で仁王立ちする奴を信用する。それだけのことだ」
議論が平行線をたどりかけた頃、季節は春に移ろうとしていた。だが、ウクライナの春は、桜の代わりに血の雨が降った。
四月に入ってすぐのことだ。宿直でもないのに、英語教師のうらなり(古賀)君が、青い顔をして職員室に駆け込んできた。彼は色が白くて、吹けば飛ぶような男だが、根は優しくて正直だ。
「みなさん……見ましたか。ブチャという町のことです」
うらなり君が見せたタブレットの画面を見て、俺は言葉を失った。
ロシア軍が撤退した後の路上に、市民の遺体が転がっている。手を後ろ手に縛られた者、自転車に乗ったまま撃たれた者。それは戦争というよりは、ただの殺戮だった。
狸校長が、やあやあと言いながら入ってきたが、画面を覗き込むなり、そのタヌキ顔から血の気が引いた。
「こ、これは……教育上、よろしくないな。いや、実に遺憾だ」
遺憾で済むなら警察はいらぬ。
ニュースの中で、ゼレンスキーがそのブチャを視察していた。防弾チョッキを着て、惨状を目の当たりにした彼の顔から、かつての愛嬌や、赤シャツの言う「演出」の気配は消え失せていた。あるのは、深い悲しみと、それを通り越したどす黒い憎悪だけだった。
「顔が変わったな」と山嵐が呟いた。
「ああ。今までは『プーチンと会って話がしたい』なんて言ってたが、もう無理だろう。こりゃあ、引くに引けねえ喧嘩になった」
赤シャツが、パイプを掃除しながら冷ややかに言った。
「早期停戦の芽はなくなりましたね。彼はこれで、交渉による妥協という道を自ら閉ざした。正義と責任追及を叫べば叫ぶほど、戦争は泥沼化する。国民を鼓舞するにはいいが、出口が見えなくなりますよ」
「出口なんかどうでもいい!」
俺は思わず怒鳴っていた。
「こんな真似をされて、ハイそうですかと手打ちができるか。俺なら、最後の一人になっても石を投げるぞ」
「だから、君は単純だと言うんです」
赤シャツは薄ら笑いを浮かべた。
「国家の指導者は、感情で動いてはいけない。だが、ブチャを見た以上、ゼレンスキーも修羅の道を歩まざるを得ないでしょう。……さて、ここからが本当の地獄だ」
テレビの中のゼレンスキーは、各国の議会に向けて演説を始めていた。真珠湾だのチャーチルだの、相手の国が喜びそうな言葉を巧みに使い分けながら、なりふり構わず「助けてくれ」と叫んでいる。
その姿は、もはやコメディアンでもなければ、ただの被害者でもなかった。国の存亡という巨大な荷物を背負わされ、鬼の形相で世界を睨みつける、一人の孤独な喧嘩師に見えた。
俺は茶を啜りながら思った。
世の中には、どうにもならん悪党がいる。そいつと渡り合うには、綺麗事だけじゃ済まねえ。この男は、その覚悟を決めたんだろう。だが、その覚悟の代償に、これからどれだけの血が流れるのか、俺には見当もつかなかった。
これが、長く苦しい戦争の、ほんの始まりに過ぎなかったのである。
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