第7章 硝子(ガラス)の塔に住む者へ —— 日本への警告
さて、話を東欧の泥沼から、我が懐かしき日本へと戻そう。
極東の海に浮かぶ、この細長い島国は、今や世界でも稀に見る奇妙な場所となった。外では嵐が吹き荒れ、雷が落ちているというのに、家の中だけはポカポカと暖かく、人々は「平和」という名の硝子の塔の中で、安らかな微睡を貪っているからだ。
だが、吾輩の目には、その硝子に既に無数のヒビが入っているのが見える。
「対岸の火事」だと思って高見の見物を決め込んでいた火の粉が、もうとっくに自分の袂に飛び火し、焦げ臭い匂いを放っていることに、どれほどの人間が気づいているだろうか。
まず、窓の外を見てみるがいい。景色は一変した。
かつては、北のロシアさえ警戒していれば事足りた。だが今はどうだ。
南には、台湾を飲み込もうと顎を開く巨大な竜(中国)がいる。西には、ミサイルという花火遊びに興じる厄介な隣人(北朝鮮)がいる。そして北には、傷ついた手負いの熊が、日本を「敵性国家」と睨みつけている。
これら三者が、こっそりと手を組み始めているのだから始末が悪い。北の小国がロシアに弾を貸し、その見返りに高度な技術を貰い受ける。その技術で作られたミサイルは、もはや玩具ではない。迎撃困難な「凶器」となって、日本の頭上を飛び交うことになる。
東も西も北も、周りはすべて狼だらけ。これを「四面楚歌」と言わずして何と言うか。
こうした殺伐とした外の世界に対し、硝子の塔の住人たちは、これまで「専守防衛」という美しい呪文を唱えていれば、結界が張られて守られると信じてきた。
憲法九条という経文は、確かに崇高だ。だが、悲しいかな、ミサイルという鉄の塊は文字を読めない。狂気を持った隣人が「撃つ」と決めれば、経文もろとも吹き飛ばされるのが現実だ。
そこでようやく、日本政府も重い腰を上げた。
トマホークだの、次期戦闘機だのと、物騒な「槍」を買い込み始めたのである。
「平和国家が武器を持つなどけしからん」と眉をひそめる向きもあろう。その気持ちは分からんでもない。だが、強盗が包丁を研いでいる時に、こちらが素手で「話し合いましょう」と近づくのは、勇気ではなく蛮勇、いや、ただの自殺行為だ。
「俺を刺せば、お前も刺されるぞ」と相手に思わせるための、これは悲しいが必要な「保険」なのである。
さらに深刻なのは、この塔のエネルギー、すなわち電気やガスの問題だ。
現代人は、スイッチ一つで明かりがつき、夏は涼しく冬は暖かいのが当たり前だと思っている。だが、そのエネルギーの源の多くは、海を渡って運ばれてくる。
もし台湾で戦が始まり、シーレーンという名の血管が遮断されたらどうなるか。
石油もガスも入ってこない。火力発電所は止まり、日本列島は漆黒の闇に包まれる。スマホも使えず、コンビニから食料が消え、トイレの水さえ流れなくなる。
その時になって「原発は嫌だ」とか「再エネは景観が悪い」などと贅沢を言っている余裕はない。
背に腹は代えられぬ。「生き延びる」ためには、好き嫌いを言わずに使えるものは何でも使い、自前でエネルギーを確保する覚悟を決めねばならんのだ。
そして、最も吾輩が呆れているのは、身を守るための「穴」一つ掘っていないことだ。
ウクライナの人々が生き延びられたのは、旧ソ連時代に作られた頑丈な地下鉄やシェルターがあったからだ。
ひるがえって日本はどうだ。
Jアラートとかいう不愉快なサイレンが鳴り響いた時、諸君はどこへ逃げる? 地下の駅か? あんなものは少し強い爆風が吹けば水浸しになる穴蔵に過ぎん。核はおろか、爆弾の直撃にも耐えられぬ。
政府がお膳立てして守ってくれる、などという甘い考えは捨てることだ。有事の際、お上は自分のことだけで手一杯になる。最後に自分の身を守るのは、自分が備蓄した水と食料、そして「どう逃げるか」という事前のシミュレーションだけである。
結論を言おう。
ウクライナ戦争が日本人に突きつけたのは、**「タダで手に入る平和の時代は終わった」**という冷徹な通知書だ。
これからの平和は、高い税金を払い、嫌な武器を持ち、不便を我慢し、常に最悪の事態に備えるという「コスト」を支払った者だけが享受できる、贅沢品となるだろう。
硝子の塔はいずれ割れる。いや、もう割れているのかもしれん。
その外に広がる荒涼とした荒野を、諸君はこれから歩いていかねばならんのだ。
吾輩は猫でも幽霊でもない、ただの言葉の綾だが、草葉の陰から諸君の健闘を祈っているよ。
せめて、死ぬ時に「もっと備えておけばよかった」と後悔せぬようにな。
(完)




