第3章 泥濘(ぬかるみ)と鉄の夢
吾輩は死して久しい。
かつて早稲田の南に猫と共に暮らしておった頃、文明というものは、あたかも蒸気機関車の如く、煤煙を吐きながらも前へ前へと進むものだと信じられていた。人間は賢くなり、理性が野蛮を駆逐し、いずれ世界は話し合いと商売だけで回る「開化」の極みに達するであろうと。
だが、どうだ。霊界の窓から二十一世紀の半ば、二千二十五年なる今の世を見下ろせば、眼下に広がるのは進歩どころか、明治の昔に旅順で見たのと少しも変わらぬ、血と泥の景色ではないか。
「歴史は繰り返す」とは陳腐な言だが、繰り返すたびに道具だけが精巧になり、殺し合いの質が悪くなっているのだから始末が悪い。東欧の黒土の上で演じられているこの大立ち回りは、現代文明という金メッキが剥げ落ち、その下から剥き出しの「鉄」と「エゴイズム」が顔を出した象徴と言える。
事の始まりは、三年と九ヶ月前に遡る。
北の大国、ロシアである。彼の国の主は、ピョートル大帝の如き夢を見たらしい。「隣のウクライナなぞ、腐った納屋のようなもの。一蹴りすれば崩れ落ちる」と。二千二十二年の二月、凍てつく大地に戦車を並べた時、世界中の誰もが、数日後にはキエフ(キーウ)の街角でロシア兵が凱歌をあげていると思った。これを彼らは「電撃戦」と呼んだが、何のことはない、強盗が白昼堂々と勝手口から押し入ろうとしただけの話だ。
ところが、納屋の住人は意外に頑固であった。
元コメディアンだという大統領は、逃げるどころか「我に必要なのは乗り物ではない、弾薬だ」と見得を切った。ここから筋書きが狂い始めた。西側の国々は、慌てて金庫を開け、古い鉄砲やらミサイルやらを送り込み、経済制裁という名の兵糧攻めを開始した。ルーブルは紙屑になると言われ、ロシアは干上がると予言された。
だが、三年が過ぎた今、どうなっているか。
ロシアは死ななかった。石油とガスという血液を、中国やインドという別の血管に流し込み、戦時経済という名のドーピングで肥え太り、昭和の亡霊の如き「肉弾戦」を続けている。
戦場の様相も、開戦当初の華々しい機動戦から、陰惨な消耗戦へと堕した。
二千二十三年の夏、ウクライナは西側の戦車を並べて反攻に出たが、ロシアが築いた「スロヴィキン・ライン」とかいう三重四重の塹壕と地雷原に阻まれ、鉄の塊が無残に焼け焦げた。
結局、人間が最後に頼るのはハイテクではない。スコップで掘った穴と、泥まみれのブーツなのだ。バフムトとかいう名の街では、一軒の家、一区画の廃墟を奪い合うために、何万という若者が挽肉にされたと聞く。二百三高地の惨劇を、彼らは百年経っても卒業できておらんらしい。
そこに、「技術」という名の悪魔が加担する。
空を見上げれば、鳥ではない。ドローンとかいう無人機が、蜂の群れの如く飛び交っておる。二千二十四年の戦場は、人間が人間を撃つのではない。遠く離れた安全な部屋で、若者が画面を見ながらコントローラーを操作し、AIなる人工知能が標的を選び、自爆して木端微塵にする。これを「ゲーム感覚」と言うなら、現代人は死そのものを娯楽にしてしまったのか。
高尚な騎士道精神など欠片もない。あるのは、効率化された殺戮のシステムだけである。
そして今、二千二十五年十一月。
季節は巡り、再び冬将軍が到来しようとしているが、戦線は膠着し、地図の上をインクの染みがじわりと動くだけになった。
ウクライナは、一時の賭けとしてロシア領のクルスクへ攻め込んだりもしたが、それも今や包囲され、じり貧の様相を呈している。頼みの綱であったアメリカという巨人は、どうだ。トランプという、これまたあくの強い商人が再び大統領の椅子に座り、「金のかかる戦争はもう御免だ」と店じまいを決め込もうとしている。
欧州の紳士諸君も、「支援疲れ」などと口にし始めた。自分の家の暖房費が上がることのほうが、遠くの友人が殺されることよりも切実な問題になる。これが人間の偽らざる本性だ。
「正義」だの「民主主義」だのと叫んでいた熱狂は去り、残ったのは冷え冷えとした計算だけである。
今、戦場を支配しているのは、英雄的な物語ではない。
「あと何人死ねば相手が音を上げるか」「あと幾ら積めば手打ちにできるか」という、陰湿なソロバン勘定だけだ。
かつて文明が進めば戦争はなくなると説いた学者連中は、この泥沼を見て何を思うか。人間は、どれほど知恵をつけても、結局は棒きれを持って殴り合う猿から、半歩も出ておらんのではないか。
そう、北の空で鳴っている雷鳴は、遠い国の出来事ではない。
あれは、我々が信じていた「文明」という名の脆い塔が、音を立てて崩れ落ちる響きなのである。




