第309章 《新寺子屋:戦艦大和講義篇 第1章本編》
■1 《開講:黒板に書かれた一文字》
新寺子屋・戦史ホール。
薄く青みがかったLEDライトが天井で静かに震えている。
中央の演台に、いつもの黒いパーカー姿の南條が立った。
彼は、何も言わず黒板に白いチョークで一文字を書いた。
「大和」
チョークの粉が静かに舞う。その瞬間、部屋の温度が一段低くなったように感じた。
浜田深尾が、さっそく椅子をギシギシ言わせながら囁く。
「……出た。ロマンの塊。」
隣の北南都が苦笑する。
「ロマンなんだけどね……でも“悲劇”という言葉が真っ先に浮かぶのは私だけ?」
雑賀壮平は腕を組み、黒板の文字を真っ直ぐ見据える。
「悲劇というより、構造的破綻の結果だと思うけど。」
「壮平くんはすぐそれ言う!」と東野園萌乃。
萌乃は“少し背伸びした知識”をまといながらも、戦艦という言葉に子どものような好奇心も隠せない。
最後列で、刑事コンビ——鵜川大作と片桐一雄が、静かに沈黙している。
そして最前列の端では、真方卑弥呼が、まるで黒板の向こうに“別の世界の船影”を見ているかのように目を細めていた。
南條は、一呼吸置いて語り始める。
■2 《南條:戦艦大和とは“戦略的幻想”の結晶である》
「さて——。
今日のテーマは、“世界最大の戦艦の誕生”だ。」
南條はチョークを置き、両手を広げる。
「結論から言う。
大和は“時代遅れの未来兵器”として設計された。
これは全く矛盾しない。むしろ本質なんだ。」
萌乃が首をかしげる。
「“未来兵器”なのに“時代遅れ”?
えっと……形容矛盾みたいです。」
「違う。
未来を先取りしようとしたがゆえに、“現実の戦争の変化”を読み違えた……という意味だ。」
雑賀が補足する。
「つまり、“戦争のアルゴリズム”が変わる前提を誤認した。」
南條は頷き、ゆっくり話を続けた。
■3 《講義:ワシントン・ロンドン条約の崩壊と“質で量に勝つ”発想》
「1930年代、日本はアメリカとの造艦競争で完全に劣勢だった。
生産力、造船技術、資源。どれをとっても日本はアメリカに勝てない。
——そこで日本海軍は考えた。」
南條は黒板に新しい語を書いた。
“質の暴力”
「アメリカが10隻作るなら、日本は1隻で10隻分と戦える“怪物”を作ればいい。
そういう発想だ。」
浜田が目を輝かせる。
「それそれ!
“漢のロマン”ってやつじゃん!」
片桐がため息をついた。
「ロマンで国家戦略を語ってはいけない。事件でもそうだが、
“願望”を前提にした計画は必ず破綻する。」
鵜川がうんうんとうなずく。
「現場的には、“根拠薄い過信”ほど危険なものはない。」
春子が淡々と補足する。
「量的劣勢を質で覆そうとする計画は、現代でもよく“赤字プロジェクト”になります。」
南條が笑う。
「まさにそれだ。
そこで日本海軍が作ったのが——」
黒板に大きく書かれる。
A-140計画
■4 《A-140計画:世界最大戦艦の“試案”が生まれるまで》
「A-140とは、“46cm主砲を積む超戦艦群”の試案の総称だ。
A-140-A、B、C、D……という具合に、多数の案が検討された。
共通の思想は一つ。」
南條は指を一本立てた。
「『敵戦艦をアウトレンジで撃破する』
これだけ。」
雑賀が補足する。
「アウトレンジとは“敵の射程より遠くから撃てる”という意味。
戦闘距離が長ければ、受けるダメージの期待値が下がる。」
萌乃がメモを取る。
「つまり……“遠くから一方的に殴る”ってこと?」
「そうだ。
そのための手段が——」
再び黒板に書かれる。
46cm/45口径九四式主砲
「世界最大級の主砲だ。
砲身21m、砲弾1.46トン。
最大射程は約42km。」
浜田のテンションが跳ね上がる。
「42km!?
市街地から観覧車見えるどころじゃねぇ!!」
片桐が冷静に言う。
「ただし、その距離で当たるかどうかは別問題だろ。」
「そのとおり。」と南條。
「当たらない。“当たると信じていた”のだ。」
真方卑弥呼が、静かに口を開く。
「“信仰”は技術を強くするけれど、同時に曇らせもする。
船はその曇りの中で設計された。」
■5 《南條:装甲と火力の“集中最適化”という罠》
南條は大和の装甲図を黒板に言葉で描き始めた。
「大和の装甲帯は最大410mm。
砲塔前面は650mmにも達する。
——だが。」
その口調が少し重くなる。
「これは“局所的最適化”なんだ。
主砲戦にだけ最適化され、
それ以外への耐性——特に航空攻撃や魚雷——は十分ではない。」
雑賀が冷静に言う。
「“装甲と砲だけ強化したモンスター”……。
システムとしての総合最適化ではない。」
南條は、笑みのない笑いを浮かべる。
「雑賀の言う通りだ。
当時の海軍は、“艦隊決戦”という古い枠組みに囚われていた。
だから装甲の配置も、
“砲弾”にしか最適化されていない。」
萌乃が手を挙げる。
「でも……実際の戦争は、航空機の時代に……?」
「そう。」南條が頷く。
「大和が設計されている間に、
戦争は“航空決戦”にシフトしていた。」
卑弥呼が、まるで遠い海図を見るように呟く。
「時代は、船が生まれる前に船を追い越したの。」
■6 《講義:なぜ海軍は“未来の戦争”を読み誤ったのか》
南條がチョークを置き、ゆっくり生徒たちを見渡した。
「これは大和だけの問題じゃない。
“組織の認知バイアス”の教科書的事例だ。」
そして四つの要因を黒板に書く。
1.過去の成功体験(日本海海戦の呪縛)
2.技術リソースの偏り(砲術至上主義)
3.組織文化(航空主力化を嫌う保守派の抵抗)
4.情報非公開(正確な米国の工業力を把握していない)
鵜川が、「なるほどな」と唸る。
「事件でもあるんだよ。
“犯人の手口はこうだ”と先入観固定して、
別の証拠が見えてないパターン。」
片桐も頷く。
「“過去の成功から抜け出せない”のは、
組織が老いた証拠だ。」
北南都が静かに言う。
「じゃあ……大和は、
“過去の亡霊”を体現した船なんですか?」
南條は、その問いを肯定も否定もしない表情で少しだけ間を置いた。
「……ある意味では、そうだ。
だが、同時に“技術者たちの情熱の結晶”でもある。」
越野が、手元の資料を整えながら言う。
「当時の工廠技師の記録には、
“世界最強の船を造る”という気迫が満ちていました。」
萌乃が、胸の前で手をぎゅっと握る。
「じゃあ……失敗だけの物語じゃないんですね。」
卑弥呼が静かに微笑む。
「人間はいつも、失敗と奇跡の間で生きている。
戦艦も、例外じゃない。」
■7 《第1章の核心:大和は“幻想の戦略”と“リアルな技術”の継ぎ目に生まれた》
南條が講義の総括に入る。
「大和は、
“戦略的幻想”の上に、
“最高の工学技術”を積み上げた矛盾体だ。」
黒板に再び「大和」と大きく書き足す。
「だからこそ、この船を理解するには
“政治”“戦略”“工学”“人間心理”の
すべてを見なければいけない。
今日はその“入り口”だ。」
—
萌乃:「入り口……?」
南條:「そう。
次の章では——」
照明が少し落ち、スライドに呉海軍工廠の巨大な陰影が映る。
「“どうやって、この怪物が造られたか”
そこに踏み込む。」
浜田:「キタ……“工廠ロマン”!」
片桐:「ロマンではない。現場の地獄だろ。」
北南都:「でも見たいですよね。
どんなふうにこの“神話”が形になったか。」
卑弥呼が一言だけ呟く。
「——神話は、いつも巨大な影から始まる。」
南條が手を叩いた。
「第1章、ここまで。
次は第2章《呉海軍工廠・秘密のドック》へ進む。」




