表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン23

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3412/3473

第308章 第5章 すべてがゼロになる(All becomes Zero)


1

 昭和二十年四月七日、正午過ぎ。坊ノ岬沖。

 雨雲が低く垂れ込め、視界は悪い。

 だが、レーダーの画面は、それが「雨」ではないことを告げていた。

「敵機、接近。数、計測不能。……三百機以上」

 電測員の報告は、恐怖で裏返ることもなく、ただ事実を伝える機械のようだった。

 雑賀壮平は、第一艦橋でその報告を聞いた。

 彼は懐中時計を見た。予定通りだ。彼らの到着は、鉄道のダイヤグラムよりも正確だった。

「来たか」

 隣で鵜川大作が、苦々しげに唾を吐いた。

「ハエの大群だ。こっちはハエ叩き(機銃)しか持ってねえってのに」

 空が黒く染まる。

 雲の切れ間から、米軍機が急降下を開始した。

 爆音。

 それが始まりの合図だった。

 最初の爆弾が、後部甲板に命中する。

 鋼鉄が引き裂かれる金切り音。人が蒸発する音。それらが渾然一体となり、大気そのものを震わせた。

 

 国沢春子の声が、伝声管を通じて響く。

『後部副砲、大破。火災発生。消火班、全滅』

 彼女の声には、相変わらず温度がない。

『注水開始。傾斜復旧、急げ。……邪魔よ、死体は海に捨てなさい。通路を塞ぐな』

 彼女は地獄の底で、完璧な事務処理を行っていた。

2

 甲板は、鉄と肉の屠殺場とさつじょうと化していた。

「撃て! 撃ち落とせぇッ!」

 北南都中尉が絶叫していた。

 彼は機銃座に取り付き、上空へ向けて曳光弾をばら撒いていた。彼の愛機はすでに破壊され、燃え上がる残骸となっている。空を飛ぶ翼を奪われた彼は、ただ空を睨みつけることしかできなかった。

「ロマンがない! こんなのは戦争じゃない! ただのリンチだ!」

 彼の叫びに応えるように、一機のヘルダイバーが急降下した。

 投下された爆弾が、機銃座を直撃する。

 閃光。

 北の身体が、その熱量の中で一瞬で炭化し、そして粒子となって四散した。

 彼が信じた「美学」は、物理的な熱エネルギーの前には無力だった。

 艦内深部、烹炊所ほうすいじょ

 浜田深尾少尉は、巨大な釜の陰で震えていた。

 彼は耳を塞ぎ、目を閉じていた。

「萌乃さん、萌乃さん……」

 彼は呪文のように繰り返していた。

 頭上での衝撃音。電灯が消え、非常灯の赤い光だけになる。

 艦が大きく傾く。釜の中の熱湯が溢れ出し、床を洗う。

「嫌だ、暗いのは嫌だ!」

 浜田は立ち上がり、出口へ走ろうとした。

 その時、左舷中央に魚雷が命中した。

 衝撃波が隔壁を突き破る。

 海水が鉄砲水となって押し寄せ、浜田の身体を、彼が愛した「大和の食事」の残骸と共に飲み込んだ。

 彼の意識は、冷たい海水の中でプツリと途絶えた。それは、スイッチを切るようにあっけない最期だった。

3

 午後二時。

 大和は、もはや船としての機能を喪失していた。

 左舷への魚雷集中攻撃。傾斜は三十五度を超え、復原の限界点ポイント・オブ・ノー・リターンを越えようとしていた。

 艦橋。

 床が壁になりつつある。

 人々は必死に何かにつかまっていたが、雑賀だけは、傾斜に合わせて身体の重心を移動させ、奇妙なバランスで立っていた。

 彼はポケットからハイライトを取り出した。

 一本くわえる。

 オイルライターを弾く。

 カチッ。

 火がつかない。オイルが切れたのか、それとも空気が薄いのか。

「……不便だな」

 雑賀は呟いた。

 その時、視界が白く染まった。

 爆煙ではない。

 白いワンピースの少女が、傾いた甲板に立っていた。重力を無視して、垂直に。

『時間よ、雑賀先生』

 真方卑弥呼が微笑む。

『左舷注水区画、満杯(Full)。弾薬庫温度、臨界点(Full)。乗員の生存率、ゼロ(Finish)。すべてがFになったわ』

「君は、これが見たかったのか」

 雑賀は消えたライターをポケットにしまった。

「六万トンの鉄塊が、ただの無機物に還る瞬間を」

『ええ。美しいでしょう?』

 卑弥呼は両手を広げた。

『人間が作った最大のハードウェアが、その質量ゆえに自壊していく。構造的な矛盾の解消。これは死ではないわ。解放よ』

『さあ、行きましょう。肉体という檻を捨てて、純粋な情報の海へ』

 艦が、ゴクリと音を立てた。

 横転が始まる。

 海面が窓に迫る。いや、窓が海面になった。

 雑賀は、迫りくる緑色の海水を見つめながら、最後に一つだけ思考した。

 ――萌乃君。君の計算は正しかったよ。この世界は、マイナスの数式でできている。

 海水がガラスを突き破る。

 冷徹な水圧が、彼の思考を物理的に遮断した。

4

 一九四五年四月七日、十四時二十三分。

 戦艦大和、爆発。

 転覆した巨体の内部で、主砲弾薬庫が誘爆したのだ。

 六千メートルの火柱が上がった。

 それは、核爆発にも似た、巨大なキノコ雲を形成した。

 海は沸騰し、鉄は蒸発した。

 国沢春子も、鵜川大作も、数千の命も、一瞬で原子レベルに分解され、空へと昇華した。

 そこには痛みも、悲しみもない。

 ただ、圧倒的なエネルギーの解放があっただけだ。

 数秒後。

 爆音が去った後には、ただ広い海だけが残っていた。

 油膜と、わずかな漂流物。

 世界最大の戦艦は、痕跡も残さず、すべてがゼロ(無)になった。

5 エピローグ

 数十年後。

 国立N大学、工学部キャンパス。

 晩秋の並木道には、枯葉が舞っていた。

 古びた研究室の窓際で、一人の老教授がコーヒーを飲んでいる。

 マグカップには「N Univ.」のロゴ。中身は相変わらず、泥水のように濃い。

 雑賀壮平である。

 あの地獄から、奇跡的という言葉では片付けられない確率で生還した彼は、今もこうして大学の象牙の塔に籠もっていた。

 ドアが開く。

「先生、またタバコですか? 医者に止められているでしょう」

 入ってきたのは、初老の女性だった。

 品の良いスーツを着こなした彼女は、かつての少女の面影を残しながらも、長い年月を重ねた知性を漂わせていた。

 東野園萌乃。現在はN大学の数学教授である。

「萌乃君か」雑賀はタバコを消した。「一本だけだ。思考の整理に必要でね」

「何の思考です?」

「昔の計算の見直しだよ」

 雑賀の机の上には、一枚の写真が置かれていた。

 海底探査機が撮影した、海底に眠る戦艦大和の残骸。

 ばらばらになり、泥に埋もれた鉄の塊。かつての栄光の面影はない。

「……先日、海底で見つかったそうです」萌乃が静かに言った。「先生のライターが」

「ほう」

「奇跡ですね。あんな爆発の中で、形を留めていたなんて」

「形あるものは、いつか壊れる。壊れなかったとすれば、それはたまたまその部分にエントロピーの増大が遅れていただけだ」

 萌乃は写真に目を落とした。

「ねえ、先生。あの日、船と一緒に沈んだ彼女……真方博士は、今もあそこにいるのかしら」

「さあな」

 雑賀は窓の外を見た。空は高く、青い。

「彼女は言っていた。『すべてがFになる』と。Fは十五であり、満杯であり、そして終わりだ」

「ええ」

「だが、コンピュータの世界では、Fの次はまた0(ゼロ)に戻る。ループするんだよ」

 雑賀は微かに目を細めた。

「彼女はもう、あんな狭い鉄の箱にはいないだろう。システムは解放された。今頃は、このネットワークのインターネットのどこかで、我々を笑って見ているかもしれないな」

 萌乃はふっと笑った。

「そうですね。……7は孤独な数字。でも、ゼロは無限の可能性を含む数字ですものね」

「ロマンチックな解釈だな」

 雑賀は苦笑し、冷めたコーヒーを啜った。

「さて、仕事に戻ろうか。生き残った者の義務は、感傷に浸ることじゃない。観測を続けることだ」

 二人の背後で、モニターのスクリーンセーバーが起動した。

 無数の数字が流れる中、一瞬だけ、白いワンピースの少女が微笑んだように見えた。

 

 The End.


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ