第308章 第5章 すべてがゼロになる(All becomes Zero)
1
昭和二十年四月七日、正午過ぎ。坊ノ岬沖。
雨雲が低く垂れ込め、視界は悪い。
だが、レーダーの画面は、それが「雨」ではないことを告げていた。
「敵機、接近。数、計測不能。……三百機以上」
電測員の報告は、恐怖で裏返ることもなく、ただ事実を伝える機械のようだった。
雑賀壮平は、第一艦橋でその報告を聞いた。
彼は懐中時計を見た。予定通りだ。彼らの到着は、鉄道のダイヤグラムよりも正確だった。
「来たか」
隣で鵜川大作が、苦々しげに唾を吐いた。
「ハエの大群だ。こっちはハエ叩き(機銃)しか持ってねえってのに」
空が黒く染まる。
雲の切れ間から、米軍機が急降下を開始した。
爆音。
それが始まりの合図だった。
最初の爆弾が、後部甲板に命中する。
鋼鉄が引き裂かれる金切り音。人が蒸発する音。それらが渾然一体となり、大気そのものを震わせた。
国沢春子の声が、伝声管を通じて響く。
『後部副砲、大破。火災発生。消火班、全滅』
彼女の声には、相変わらず温度がない。
『注水開始。傾斜復旧、急げ。……邪魔よ、死体は海に捨てなさい。通路を塞ぐな』
彼女は地獄の底で、完璧な事務処理を行っていた。
2
甲板は、鉄と肉の屠殺場と化していた。
「撃て! 撃ち落とせぇッ!」
北南都中尉が絶叫していた。
彼は機銃座に取り付き、上空へ向けて曳光弾をばら撒いていた。彼の愛機はすでに破壊され、燃え上がる残骸となっている。空を飛ぶ翼を奪われた彼は、ただ空を睨みつけることしかできなかった。
「ロマンがない! こんなのは戦争じゃない! ただのリンチだ!」
彼の叫びに応えるように、一機のヘルダイバーが急降下した。
投下された爆弾が、機銃座を直撃する。
閃光。
北の身体が、その熱量の中で一瞬で炭化し、そして粒子となって四散した。
彼が信じた「美学」は、物理的な熱エネルギーの前には無力だった。
艦内深部、烹炊所。
浜田深尾少尉は、巨大な釜の陰で震えていた。
彼は耳を塞ぎ、目を閉じていた。
「萌乃さん、萌乃さん……」
彼は呪文のように繰り返していた。
頭上での衝撃音。電灯が消え、非常灯の赤い光だけになる。
艦が大きく傾く。釜の中の熱湯が溢れ出し、床を洗う。
「嫌だ、暗いのは嫌だ!」
浜田は立ち上がり、出口へ走ろうとした。
その時、左舷中央に魚雷が命中した。
衝撃波が隔壁を突き破る。
海水が鉄砲水となって押し寄せ、浜田の身体を、彼が愛した「大和の食事」の残骸と共に飲み込んだ。
彼の意識は、冷たい海水の中でプツリと途絶えた。それは、スイッチを切るようにあっけない最期だった。
3
午後二時。
大和は、もはや船としての機能を喪失していた。
左舷への魚雷集中攻撃。傾斜は三十五度を超え、復原の限界点を越えようとしていた。
艦橋。
床が壁になりつつある。
人々は必死に何かにつかまっていたが、雑賀だけは、傾斜に合わせて身体の重心を移動させ、奇妙なバランスで立っていた。
彼はポケットからハイライトを取り出した。
一本くわえる。
オイルライターを弾く。
カチッ。
火がつかない。オイルが切れたのか、それとも空気が薄いのか。
「……不便だな」
雑賀は呟いた。
その時、視界が白く染まった。
爆煙ではない。
白いワンピースの少女が、傾いた甲板に立っていた。重力を無視して、垂直に。
『時間よ、雑賀先生』
真方卑弥呼が微笑む。
『左舷注水区画、満杯(Full)。弾薬庫温度、臨界点(Full)。乗員の生存率、ゼロ(Finish)。すべてがFになったわ』
「君は、これが見たかったのか」
雑賀は消えたライターをポケットにしまった。
「六万トンの鉄塊が、ただの無機物に還る瞬間を」
『ええ。美しいでしょう?』
卑弥呼は両手を広げた。
『人間が作った最大のハードウェアが、その質量ゆえに自壊していく。構造的な矛盾の解消。これは死ではないわ。解放よ』
『さあ、行きましょう。肉体という檻を捨てて、純粋な情報の海へ』
艦が、ゴクリと音を立てた。
横転が始まる。
海面が窓に迫る。いや、窓が海面になった。
雑賀は、迫りくる緑色の海水を見つめながら、最後に一つだけ思考した。
――萌乃君。君の計算は正しかったよ。この世界は、マイナスの数式でできている。
海水がガラスを突き破る。
冷徹な水圧が、彼の思考を物理的に遮断した。
4
一九四五年四月七日、十四時二十三分。
戦艦大和、爆発。
転覆した巨体の内部で、主砲弾薬庫が誘爆したのだ。
六千メートルの火柱が上がった。
それは、核爆発にも似た、巨大なキノコ雲を形成した。
海は沸騰し、鉄は蒸発した。
国沢春子も、鵜川大作も、数千の命も、一瞬で原子レベルに分解され、空へと昇華した。
そこには痛みも、悲しみもない。
ただ、圧倒的なエネルギーの解放があっただけだ。
数秒後。
爆音が去った後には、ただ広い海だけが残っていた。
油膜と、わずかな漂流物。
世界最大の戦艦は、痕跡も残さず、すべてがゼロ(無)になった。
5 エピローグ
数十年後。
国立N大学、工学部キャンパス。
晩秋の並木道には、枯葉が舞っていた。
古びた研究室の窓際で、一人の老教授がコーヒーを飲んでいる。
マグカップには「N Univ.」のロゴ。中身は相変わらず、泥水のように濃い。
雑賀壮平である。
あの地獄から、奇跡的という言葉では片付けられない確率で生還した彼は、今もこうして大学の象牙の塔に籠もっていた。
ドアが開く。
「先生、またタバコですか? 医者に止められているでしょう」
入ってきたのは、初老の女性だった。
品の良いスーツを着こなした彼女は、かつての少女の面影を残しながらも、長い年月を重ねた知性を漂わせていた。
東野園萌乃。現在はN大学の数学教授である。
「萌乃君か」雑賀はタバコを消した。「一本だけだ。思考の整理に必要でね」
「何の思考です?」
「昔の計算の見直しだよ」
雑賀の机の上には、一枚の写真が置かれていた。
海底探査機が撮影した、海底に眠る戦艦大和の残骸。
ばらばらになり、泥に埋もれた鉄の塊。かつての栄光の面影はない。
「……先日、海底で見つかったそうです」萌乃が静かに言った。「先生のライターが」
「ほう」
「奇跡ですね。あんな爆発の中で、形を留めていたなんて」
「形あるものは、いつか壊れる。壊れなかったとすれば、それはたまたまその部分にエントロピーの増大が遅れていただけだ」
萌乃は写真に目を落とした。
「ねえ、先生。あの日、船と一緒に沈んだ彼女……真方博士は、今もあそこにいるのかしら」
「さあな」
雑賀は窓の外を見た。空は高く、青い。
「彼女は言っていた。『すべてがFになる』と。Fは十五であり、満杯であり、そして終わりだ」
「ええ」
「だが、コンピュータの世界では、Fの次はまた0(ゼロ)に戻る。ループするんだよ」
雑賀は微かに目を細めた。
「彼女はもう、あんな狭い鉄の箱にはいないだろう。システムは解放された。今頃は、このネットワークの海のどこかで、我々を笑って見ているかもしれないな」
萌乃はふっと笑った。
「そうですね。……7は孤独な数字。でも、ゼロは無限の可能性を含む数字ですものね」
「ロマンチックな解釈だな」
雑賀は苦笑し、冷めたコーヒーを啜った。
「さて、仕事に戻ろうか。生き残った者の義務は、感傷に浸ることじゃない。観測を続けることだ」
二人の背後で、モニターのスクリーンセーバーが起動した。
無数の数字が流れる中、一瞬だけ、白いワンピースの少女が微笑んだように見えた。
The End.




