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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン23

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第307章 第4章「孤独な数字(Lonely Seven)」


昭和20年4月。最後の出撃前夜。

「片道燃料」という絶望的な噂と、それに動じないシステム(卑弥呼)、そして死にゆく艦に残ることを選ぶ雑賀の「孤独な決断」を描きます。

第4章 孤独な数字(Lonely Seven)

1

 昭和二十年四月五日、徳山湾。

 海はいでいた。鏡のように静かな水面が、これから始まる嵐を拒絶しているようだった。

 艦内の士官室には、重苦しい沈黙ではなく、奇妙に浮ついた空気が漂っていた。

 鵜川大作分隊長が、一枚の命令書をテーブルに投げ出した。

「『海上特攻隊トシテ出撃ス』だとよ」

 鵜川はサングラスを外し、充血した目を擦った。

「一億総特攻の先駆けになれ、ってことらしい。まったく、上が考えることはいつも詩的で、実用性がない」

「特攻……ですか」

 雑賀壮平は、手元のコーヒーカップ(中身は代用コーヒーという名の泥水だ)を揺らした。

「定義が曖昧だな。戦艦という戦略兵器を、一回きりの使い捨ての弾丸として運用する。コストパフォーマンスの概念が欠落している」

「燃料は片道分しかない、って噂だぜ」

「計算上は往復分あるはずだが、タンカーが来ないらしいな。まあ、帰る場所があるかどうかも怪しいが」

 雑賀の口調は、明日の天気予報を語るように淡々としていた。

 その態度に、部屋の隅でうずくまっていた浜田深尾少尉が耐えきれず、叫び声を上げた。

「な、なんでそんなに落ち着いていられるんですか!」

 浜田の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。

「死ぬんですよ!? 僕たちは明日、確実に死ぬんだ! 嫌だ、僕はまだ死にたくない! 萌乃さんに……萌乃さんに会いたいんだよぉ!」

 見苦しいほどの生への執着。

 だが、誰も彼を笑わなかった。それが、この艦にいる三千人の兵士の、剥き出しの本音だったからだ。

「浜田少尉」

 静かな、しかし凛とした声が響いた。

 老齢の兵曹長、**越野こしの**である。彼は白い手袋をした手で、湯気の立つポットを持っていた。

「お茶が入りました。最後の一葉ひとはでございます」

 越野は優雅な手つきで、浜田の前にカップを置いた。

 香りだけは、かつての平和な日々のそれだった。

「落ち着きなさいませ。人間、遅かれ早かれ死ぬものでございます。それが明日か、五十年後かの違いは、宇宙の歴史から見れば誤差に過ぎません」

「誤差なんて……そんな……」

「それに、お嬢様……東野園様も、きっと近くで見守っておられますよ」

 越野の目は、どこか遠く、陸の方角を見ていた。

 彼は執事としての本能で、あるじの気配を感じ取っていたのかもしれない。

2

 その頃、徳山湾の桟橋。

 夜の闇に紛れて、一隻の小舟を出そうとする影があった。

 東野園萌乃である。

 彼女はモンペ姿で、髪を振り乱し、必死に係留ロープを解こうとしていた。

「先生を……先生を連れ戻さなきゃ……」

 彼女の計算能力が、残酷な未来を弾き出していた。

 明日の作戦成功率、ゼロ。

 大和生還率、ゼロ。

 これは作戦ではない。巨大な集団自殺だ。雑賀先生をそんな無意味な数式の中に置いておくわけにはいかない。

「そこまでだ、お嬢さん」

 懐中電灯の光が、萌乃を射抜いた。

 警備艇の指揮官、**片桐一雄かたぎり かずお**だった。彼は厳しい表情で、しかし銃口は向けずに立っていた。

「片桐さん!」萌乃は彼の足にすがりついた。「お願い、通して! 先生が乗ってるの! あの船に乗ってたら死んじゃう!」

「知っている」

 片桐は短く答えた。その声は苦渋に満ちていた。

「だが、一般人を乗せるわけにはいかない。ましてや、これから死にに行く棺桶に、君のような未来のある人間を乗せるわけには」

「未来なんていらない! 先生がいない世界に、何の価値があるの!」

「萌乃さん!」

 片桐は彼女の肩を掴み、強く揺さぶった。

「雑賀先生は、自分の意志で残ったんだ。退艦命令は出ていた。技術士官は降りられたんだ。でも、あの人は降りなかった」

「……え?」

「あの人は選んだんだよ。大和と運命を共にすることを」

 萌乃は力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。

 沖合には、黒々とした大和の巨体が、墓標のようにそびえ立っていた。

3

 艦橋の最上部、防空指揮所。

 雑賀は一人、夜風に吹かれていた。

 ここからは、艦隊の全容が見渡せる。

 軽巡洋艦「矢矧やはぎ」、そして八隻の駆逐艦。

 護衛はたったそれだけだ。航空支援はない。

 孤独だ、と思った。

 世界最大の戦艦にしては、あまりに寂しい最期だ。

「……タバコ、切れたな」

 空になったハイライトの箱を握りつぶそうとした時、ふと、隣に気配を感じた。

 もちろん、誰もいない。

 だが、脳内のスクリーンには、鮮明にその姿が投影されていた。

 白いワンピースの少女。真方卑弥呼。

『ねえ、雑賀先生』

 彼女の声は、波の音よりもクリアだった。

『貴方の好きな数字は?』

「……7(セブン)だ」

 雑賀は無意識に答えた。

「割り切れない数字。孤独な数字(Lonely Seven)だ」

『ふふ。奇遇ね。明日は四月七日よ』

 卑弥呼は海面を指差した。

『そして、この艦隊の駆逐艦は当初八隻だったけれど、一隻(響)が脱落して七隻になるわ。すべては「7」に収束する』

「偶然だ」

『偶然なんて存在しないわ。あるのは必然と、観測不足だけ』

 卑弥呼は、大和の主砲塔の上にふわりと降り立った(ように見えた)。

『すべての変数は埋まったわ。燃料、弾薬、乗員の心理状態、敵の航空戦力。方程式は完成した。あとは「=(イコール)」の向こう側に行くだけ』

「それが『死』か?」

『いいえ。「F」よ』

 彼女は無邪気に笑った。

『十六進数のF。十進数で15。すべてが埋まった状態(Full)。そして、終わり(Finish)。失敗(Failure)。……システムがオーバーフローして、ゼロに戻る瞬間』

 雑賀は問い返した。

「君は、それを望んでいるのか?」

『私はただのシステムよ。望みなんてない。でも……』

 卑弥呼の表情が、ふっと曇ったように見えた。十四歳の少女の顔に戻っていた。

『……この重たい鉄の身体ハードウェアから、やっと出られる。それだけは、少し楽しみ』

 幻影は消えた。

 あとには、重油の臭いと、潮騒だけが残った。

4

 四月六日、午後。

 「天一号作戦」発動。

 戦艦大和は、抜錨ばつびょうした。

 艦内では、国沢春子が最後の点検に回っていた。

 彼女はいつものように無表情で、規律正しく、廊下ですれ違う兵士たちに敬礼を返していた。

 だが、彼女の手には、一通の手紙が握られていた。

 内地に残してきた、まだ見ぬ我が子への遺書か、あるいは自分自身への訣別の辞か。

 彼女はそれをボイラーの火にくべ、灰になるのを見届けてから、持ち場へ戻った。

 甲板では、北南都中尉が、愛機である零式観測機を撫でていた。

 この機体もまた、カタパルトで射出されることはないだろう。大和と共に沈む運命だ。

「北さん、いよいよですね」

 部下が声をかける。

「ああ」北は空を見上げた。「いい天気になりそうだ。……散り際としては、悪くない」

 雑賀は、自室で数式を書いていた。

 遺書ではない。

 この艦が沈む時の、水圧と構造崩壊のシミュレーション計算だ。

 最後まで観測者オブザーバーであり続けること。それが、彼なりのこの狂った世界に対する抵抗だった。

「……解けないな」

 雑賀はペンを置いた。

「変数が一つ足りない」

 彼は知っていた。

 その最後の変数とは、「人間の意志」という、最も非合理的なノイズであることを。

 船体が大きく揺れた。

 外海に出たのだ。

 二度と戻ることのない航海が、始まった。

(第4章 完)


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