第306章 第3章「共鳴する鉄(Resonance of Iron)
1
昭和十九年十月二十四日、シブヤン海。
世界は、灰色と赤色の二色だけで構成されていた。
灰色の空、灰色の海、そして赤色の火炎と血飛沫。
海軍技術少佐、雑賀壮平は、第一艦橋の防空指揮所に立っていた。
周囲では、対空機銃の炸裂音が鼓膜を物理的に破壊しようと唸りを上げている。だが、雑賀は耳栓を深くねじ込み、まるで水族館の水槽を眺めるような目で、左舷方向を見つめていた。
そこには、もう一頭の巨人がいた。
大和の同型艦、「武蔵」。
その不沈艦と呼ばれた鋼鉄の塊が、今、無数の水柱に囲まれ、緩慢な動作で傾きつつあった。
「……データ通りだ」
雑賀は手帳に数値を書き殴った。文字は振動で歪んでいる。
「魚雷命中、推測二十本以上。爆弾、多数。予備浮力消費率、九〇パーセントを超過。……復原力の限界だ」
「先生! 危ない、頭を下げて!」
隣で双眼鏡を覗いていた北南都中尉が、雑賀の首根っこを掴んで床に引き倒した。
直後、頭上を敵機が通過し、機銃掃射が鉄板を叩いた。カン、カン、カン、という乾いた音。人が死ぬ音にしては、あまりに軽かった。
「乱暴だな、北君」雑賀は汚れを払って起き上がった。「僕はまだ死なんよ。確率的に、ここに当たる確率は低い」
「確率なんてクソ喰らえだ!」北は血走った目で叫んだ。「見ろよ、武蔵を! 兄弟が殺されてるんだぞ!」
「兄弟?」雑賀は冷ややかに返した。「あれは兄弟じゃない。同一設計図から製造された工業製品ナンバー2だ」
「貴様……血が通ってないのか!」
北が掴みかかろうとした時、艦内放送が響いた。
感情のない、機械的な女の声だった。
『注水弁開け。右舷機械室、放棄。総員退去不能。閉鎖します』
国沢春子だ。
彼女は艦の深部にある応急指揮所で、浸水を食い止めるために区画を切り捨てていた。そこにまだ部下が残っていようがいまいが、艦全体の生存(システム維持)のために、躊躇なくハッチを閉じる。
それが、この鉄の城のルールだった。
再び爆発音。
武蔵の艦首が沈み込む。
雑賀はその光景を見ながら、ふと、思考の深淵で声を聞いた。
――ねえ、雑賀先生。
真方卑弥呼の声だ。彼女はこの戦場にいながら、まるでオペラハウスの特等席にいるかのように優雅に囁いた。
――綺麗だと思わない?
――六万四千トンの鉄塊が、重力と浮力のバランスを失って、ゆっくりと海に抱かれていく。あれは敗北ではないわ。物理法則への帰還よ。
「……帰還、か」
雑賀は呟いた。
武蔵が波間に消える。巨大な渦。
人々が信じた「不沈」という神話が、ただの物理現象として否定された瞬間だった。
2
翌、十月二十五日。サマール沖。
状況は一変した。
敵水上部隊を発見。ついに、戦艦大和の四十六センチ主砲が火を噴く時が来たのだ。
「目標、敵空母群! 距離、三万二千!」
測的士の絶叫。
艦橋の緊張が極限に達する。
雑賀は、主砲発射の衝撃に備えて手すりを握った。
「撃ッ!」
世界が割れた。
比喩ではない。大気そのものが物理的に破砕されたのだ。
全門斉射。
一発一・五トンの砲弾が、音速を超えて飛び出す。その反作用で、六万トンの巨体が横滑りした。
衝撃波が甲板を走り、露天にいた兵士たちの衣服を引き裂き、鼓膜を破った。
「うおおおおっ!」
北中尉が、狂ったように叫んでいた。
「見たか! これが大和だ! これが男のロマンだ!」
遠くの海面で、巨大な水柱が上がる。
敵艦を包み込むような水壁。
だが、雑賀は冷静にストップウォッチを押していた。
「……着弾まで九十八秒。偏差、右へ二百メートル。外れだ」
「修正! 次弾装填!」
砲撃は続く。
だが、当たらない。
敵は小型の護衛空母と駆逐艦だ。彼らは敏捷に動き回り、煙幕を張り、そして空から航空機を放ってくる。
――プッ、あははは。
卑弥呼の笑い声が、雑賀の脳内(あるいは射撃盤のモニター)に響く。
――無駄ね。滑稽なほど無駄。
――ねえ、計算してあげましょうか? この距離で、移動する点目標に無誘導の砲弾が命中する確率。0.001%以下よ。
――貴方たちは、目隠しをしてダーツを投げているようなもの。時代錯誤も甚だしいわ。
雑賀は唇を噛んだ。
わかっている。そんなことは、設計段階からわかっていた。
航空機の機動力に対し、大砲というシステムはあまりに遅すぎる。
これは戦争ではない。産業革命時代の恐竜が、現代の哺乳類に虐殺されている図式だ。
「左舷、魚雷接近!」
「取り舵一杯!」
巨体が軋む。
回避行動をとるたびに、船速が落ちる。
振り回される乗員たち。
食堂では、浜田深尾少尉が床を転がりながら、大事にしていた缶詰をぶちまけて泣いていた。
「嫌だ、嫌だ、死にたくない! 僕はまだ萌乃さんとデートもしてないんだ!」
その悲鳴も、主砲の轟音にかき消されていく。
3
戦いは終わった。
結果は、惨憺たるものだった。
敵空母を撃沈することはできず、逆に多くの僚艦を失い、大和自身も満身創痍となっていた。
数日後、ブルネイ泊地。
帰投した大和の姿は、かつての「洋上のホテル」の面影はなかった。
船体は煤で黒ずみ、甲板には直撃弾の跡が生々しく残っている。そして何より、艦全体に染み付いた臭いが異質だった。
火薬と、重油と、そして腐敗した有機物の臭い。
桟橋には、連絡機で先回りしていた東野園萌乃が立っていた。
彼女は、傷ついた巨人を見上げ、立ち尽くしていた。
タラップを降りてきた雑賀は、彼女の顔色が蒼白であることに気づいた。
「……萌乃ちゃん?」
「先生……」
萌乃は口元を押さえていた。
「臭う……」
「ああ、重油の臭いだ。慣れれば……」
「違う! 赤い臭いがする!」
彼女は錯乱したように叫んだ。
彼女のトラウマ。かつて両親を失った航空機事故の記憶。
焼け焦げた鉄と、血の混じった油の臭い。それが、今のこの艦からは濃厚に漂っていた。
「先生、なんで……なんでこんなになるまで戦うの?」
萌乃は雑賀の白衣を掴み、涙を流した。
「計算が合わないわ。得られた戦果に対して、支払ったコスト(命)が大きすぎる。こんなの、マイナスの数式じゃない!」
雑賀は、震える彼女の肩に手を置こうとして、自分の手が油と煤で汚れていることに気づき、止めた。
彼は代わりに、ハイライトを取り出した。火をつける手は、珍しく震えていた。
「……戦争とは、そういう関数だ」
雑賀は煙を吐き出し、自分自身に言い聞かせるように言った。
「合理性が通じる相手ではない。ここは狂気の定義域なんだ」
背後で、誰かが舌打ちをした。
国沢春子だった。彼女は包帯を巻いた腕で書類を抱え、冷たく言い放った。
「お喋りは終わりよ。修理ドックの手配をしなきゃならない。……まだ、この船は死んでないんだから」
死んでいない。
そう、まだ死んでいない。
だが、それは「生きている」と呼べる状態なのだろうか?
雑賀は、夕闇に沈む大和を見上げた。
艦橋の窓が、髑髏の眼窩のように暗く、彼を見下ろしていた。
その深奥で、真方卑弥呼が笑っている気がした。
――まだよ。まだ足りない。
――F(終わり)になるまでは、まだ遠い。
共鳴する鉄の叫びは、まだ止むことはなかった。
(第3章 完)




