第305章 第2章「眠れる城(The Sleeping Castle)
1
昭和十八年、トラック諸島。
海の色は、絵の具をチューブから直接絞り出したような、暴力的な青だった。
外気は三十度を超えている。甲板で目玉焼きが焼けるというのは、比喩ではなく物理的な事実だった。
だが、その分厚い装甲板の数メートル内側には、別世界が存在していた。
「……冷えるな」
雑賀壮平は呟き、白衣の襟を合わせた。
戦艦大和の士官室。そこは、帝国海軍が誇る最新鋭の空調設備によって、常に二十四度に保たれている。
彼の目の前には、銀の盆に載せられたアイスクリームと、水滴のついたラムネの瓶があった。
「贅沢な不満ですね、先生」
向かいの席で、航空隊の**北南都**中尉が、琥珀色の液体(ウイスキーの水割りだ)をグラスの中で回している。彼はハンサムで、無駄に姿勢が良かった。
「外の連中は、汗と油にまみれて整備してるんですよ。ここは天国だ」
「天国?」雑賀はタバコに火をつけた。「定義によるね。何もしないでただ浮いているだけの状態を天国と呼ぶなら、死体はみんな天国にいることになる」
「またそれだ」北は苦笑した。「先生、もっとロマンを感じてくださいよ。我々は今、世界最強の城に住んでいるんです」
「城、か」
雑賀は煙を吐き出した。
「動かない城に価値はない。城壁というのは、不動産だから意味がある。だが、これは船だ。動かない船は、単なる巨大なブイ(浮標)だよ」
そこへ、給仕係の兵士が新しい皿を運んできた。
フルコースのメインディッシュ、ステーキである。
隣のテーブルでは、主計科の浜田深尾少尉が、ナプキンを首から下げ、満面の笑みでナイフを動かしていた。
「いやあ、やっぱり大和の飯は最高ですね!」浜田は口をもぐもぐさせながら叫んだ。「他の艦の連中が聞いたら暴動が起きますよ。これぞ『ホテル大和』だ」
「浜田君」雑賀は冷ややかに言った。「君は、自分が何のためにカロリーを摂取しているか考えたことはあるか?」
「え? 生きるため、ですか?」
「この艦の燃費と同じだよ。消費すること自体が目的化している。君のその脂肪も、この艦の備蓄燃料も、使われる予定のないエネルギーの墓場だ」
浜田はきょとんとして、それから「先生、難しい話は食後にしましょう」と言って、また肉を口に運んだ。
平和だった。
あまりにも平和すぎて、ここが最前線であることを脳が拒否していた。
2
午後、雑賀は艦橋の下にある測定室にいた。
彼は、船体の歪みを計測するストレーンゲージの針を凝視していた。
「どう? 創平。この巨人は起きそう?」
背後から、艶やかな声がした。
振り返ると、派手なワンピースを着た女性が立っている。従軍記者の腕章を巻いているが、その着こなしはパリのモード誌から抜け出してきたようだ。
味沢節子。
雑賀の実の妹であり、フリーのライターである。彼女は軍部のプロパガンダ記事を書くという名目で、この要塞に入り込んでいた。
「世津子か」雑賀は計器から目を離さずに言った。「ノックくらいしろ」
「したわよ。あなたの耳が、自分に都合の良い周波数しか拾わないだけ」
彼女は勝手に雑賀のマグカップ(中身は冷めたコーヒーだ)を手に取り、一口飲んで顔をしかめた。
「まずい。……で、記事のネタはないの? 『不沈戦艦大和、遂に出撃』とか」
「ないね」
「どうして?」
「『Fleet in being(現存艦隊主義)』だよ」
雑賀は説明した。
「この船は、存在することだけで敵に対する抑止力になる。逆に言えば、戦って傷つくリスクを冒せない。虎は、檻の中にいて唸っている時が一番怖いんだ。外に出て猫だとバレたら終わりだからな」
「なるほどね」世津子はメモ帳を取り出した。「『大和は、国家という虚栄心を守るための、数百億円のガラス細工である』……これじゃ検閲で没ね」
「事実を書くのがジャーナリズムだろう?」
「大衆が求めているのは事実じゃないわ。夢よ。無敵の夢」
その時、通路の向こうから足音が近づいてきた。
軍靴の音ではない。ハイヒールの音だ。
「先生! ここにいたんですか!」
東野園萌乃だった。
彼女は父の威光と、持ち前の強引さで、視察団に紛れ込んでトラック島まで来ていたのだ。
萌乃は部屋に入るなり、世津子を見て足を止めた。
「……あら、儀同さん(世津子のペンネーム)。またいらしたの」
萌乃の声が少し尖る。
「あら、お嬢様。こんな前線までピクニック?」世津子は余裕の笑みで返す。「日焼け止め、ちゃんと塗ってる? 紫外線は肌の敵よ」
「余計なお世話です。……それより、なんで貴女が先生のマグカップを持っているんですか?」
「間接キス?」世津子は悪戯っぽくカップを掲げた。「創平の味見をしてたの」
「そ、創平!?」
萌乃が顔を赤くして雑賀を睨む。
雑賀は面倒くさそうに溜息をついた。
「二人とも、僕の部屋で漫才をするのはやめてくれないか。酸素の無駄だ」
3
その夜。
雑賀と萌乃は、甲板に出ていた。
満天の星。天の川が、大和の巨大な煙突の上に架かっている。
海風は生温かいが、艦内よりはずっと人間的な空気が流れていた。
「静かですね」萌乃が言った。
「ああ」
「こんなに大きな船なのに、どうして音もしないのかしら」
「動いていないからだ」
雑賀は手すりに手を置いた。
「機能美というのは、機能している瞬間にしか発生しない。F1カーが美しいのは、時速三百キロで走っている時だけだ。ガレージに止まっているF1は、ただの派手な鉄屑に過ぎない」
「じゃあ、大和は美しくない?」
「今はね。……だが」
雑賀は言葉を切り、暗い海を見つめた。
視線の先には、僚艦「武蔵」のシルエットが浮かんでいる。
「もし、この巨体が全力で稼働する時が来るとすれば……それは、破滅に向かって走る時だけだろう」
その時、艦内放送のスピーカーからではなく、萌乃の頭の中に直接響くような声がした。
あるいは、風の音だったのかもしれない。
――そうよ。死に向かう速度だけが、リアルなの。
萌乃はびくりとして周囲を見回した。
「先生、今、声が……」
「真方博士か」雑賀は動じなかった。「彼女はこの艦の神経系と同化しているからな」
幻影のように、白いワンピース姿の真方卑弥呼が、主砲塔の上に座っているのが見えた気がした。
もちろん、物理的にはあり得ない。だが、この非現実的な空間では、幽霊の方が生きた人間よりも確かな質量を持っているように思えた。
「ねえ、雑賀先生」
脳内の卑弥呼が語りかける。
「この船のエネルギー保存則は、すでに崩壊しているわ。入力されたリソースに対して、出力がゼロ。この矛盾を解消するには、どうすればいいと思う?」
「……全エネルギーを一瞬で解放するしかない」雑賀は独り言のように答えた。
「正解(Excellent)。その時、この船は初めて『完成』する。楽しみね」
幻影は消えた。
「先生?」萌乃が不安そうに雑賀の袖を引いた。「誰と話しているんですか?」
「独り言だ」
雑賀はタバコをもみ消した。
「帰ろう。ここは冷える。……精神的にね」
4
艦内へ戻る途中、通路で国沢春子とすれ違った。
彼女は書類の束を抱え、鬼のような形相で歩いていた。
「雑賀少佐。またサボり?」
「休憩だよ。労働基準法に基づいた」
「戦場にそんなものはないわ。……それと、東野園さん」
国沢は萌乃を冷ややかに見下ろした。
「明日の朝、内地への便が出るわ。乗りなさい」
「えっ、まだ帰りたくありません! もっと調べたいことが……」
「これは命令じゃない。忠告よ」
国沢の声が、わずかに低くなった。
「この先は、子供が見ていい夢じゃない。……ここはホテルじゃなくて、火葬場になる予定なんだから」
国沢はそれだけ言うと、カツカツと足音を響かせて去っていった。
その背中は、これから来る運命をすべて背負っているかのように、強張っていた。
「火葬場……」
萌乃は呟いた。
艦の奥底から、微かな振動が伝わってくる。それはエンジンの鼓動ではなく、巨大な怪物が目覚めを待つ、寝息のようだった。
眠れる城、戦艦大和。
その目覚めの時は、刻一刻と近づいていた。
そしてそれは、彼らが望むような「栄光の朝」ではないことを、ここにいる知性たちは皆、予感していた。
(第2章 完)




