第302章 :『亀山さんの家庭内冷戦史』
第1章:開戦のファンファーレ(The Sunday Lunch Conflict)
シーン:ファミレス「ジョリー」・バックヤード(アイドルタイム)
(野本、富山、亀山の3人が休憩中。
亀山は、持参したタッパーから漬物を出して二人に勧めている)
野本
……亀山さん。
以前、ご自身の家庭を「冷戦構造」と評しておられましたが、具体的にはどのような戦力均衡が保たれていたのですか?
亀山
(漬物をポリポリ齧りながら)
そうねぇ。
開戦のきっかけは、新婚当時。
今の旦那……当時はまだ「駆逐艦」クラスの軽量級だったあの人が、日曜の昼に放った一言ね。
「昼飯、何か簡単なものでいいよ」
富山
あー、あるある! それ一番困るやつ!
「簡単」って何? 具体的に言ってよって感じ。
野本
(眼鏡を光らせて)
軍事的に分析しますと、それは「ブービートラップ(仕掛け爆弾)」です。
「簡単なもの」という言葉の裏には、「手間はかけるな、だが味は専門店レベル、かつ俺の今の気分に合わせろ」という高度な要求が暗号化されています。
迂闊に「そうめん」などを投入すれば、「えー、また麺?」という迎撃ミサイルが飛んできます。
亀山
その通りよ、野本ちゃん。
当時のあたしは、まだ新米艦長だった。
だから馬鹿正直に、冷蔵庫の余り物でチャーハンを作ったの。
そうしたら旦那、「ああ、チャーハンか……パラパラしてないね」って、スプーンで皿をカチャカチャ鳴らしながら言ったのよ。
富山
うわ、ムカつく! なにその態度!
亀山
その瞬間、あたしの中で「デフコン1(戦争準備態勢)」のサイレンが鳴ったわ。
あたしは笑顔で「ごめんねぇ」と言いながら、心の中で宣戦布告したの。
『以後、本艦は夫に対し、音響的・心理的なステルス戦を展開する』ってね。
野本
なるほど。
正面から反論(水上戦)するのではなく、潜航してゲリラ戦に移行したわけですね。
亀山
その夜から、旦那のビールは「発泡酒」にすり替わり、シャンプーは詰め替え用の安いヤツに変わったわ。
パッケージ(外殻)は本物のまま、中身(弾頭)だけを変える。
これは「欺瞞工作」よ。
野本
素晴らしい。
敵ソナーを欺くデコイ(囮)戦術の基本です。
旦那さんは気づきましたか?
亀山
気づかないわよ。
「やっぱ一番搾りは美味いな!」なんて言いながら飲んでたわ。
その姿を見て、あたしはキッチンの陰でほくそ笑むの。
これが、あたしの最初の勝利ね。
第2章:姑という名のSOSUS(Surveillance System)
シーン:バックヤード・続き
富山
へぇ〜、亀山さんも若い頃は苦労したんですね。
でも、旦那さんだけならまだなんとかなりそうだけど……。
亀山
甘いわよ、富山ちゃん。
冷戦には、常に第三国の監視の目があるの。
同居していた姑……コードネーム「お義母さま」。
あちらは、固定式海底聴音網(SOSUS)そのものだったわ。
野本
SOSUS……!
一度設置されたら逃れられない、24時間体制の監視システムですね。
亀山
あの人の耳は地獄耳(高性能ハイドロフォン)よ。
あたしが二階の自室で、ちょっと旦那の愚痴をこぼしたとするでしょ?
翌朝の朝食で、「最近の若い人は我慢が足りないわねぇ」って、味噌汁の温度についての苦情に偽装して攻撃してくるの。
富山
怖っ! 盗聴器でも仕掛けられてるんですか?
野本
いいえ、木造家屋の音響伝播特性を熟知しているのです。
「家」そのものが彼女の拡張身体なのです。
亀山さん、どうやって対抗したのですか?
亀山
「ノイズ・ジャミング」よ。
富山
ジャミング?
亀山
掃除機よ。
姑が活動を開始する時間に合わせて、あたしもダイソン……じゃなかった、当時の重たい掃除機を全開で回すの。
「お義母さま、お部屋を綺麗にしますね〜!」って大声で叫びながら、その騒音に紛れて、友達と長電話したり、隠しておいた高級チョコを食べたりしたわ。
野本
(感嘆して)
轟音で相手の聴音能力を奪い、その隙に作戦行動を行う……。
これは『深淵の交戦規定』第4章で私がやった「氷の轟音に紛れる戦術」と同じです。
亀山さん、あなたは生まれながらのサブマリナーです。
亀山
ふふ、伊達に30年主婦やってないわよ。
でもね、一番の危機は「テレビのリモコン権争奪戦」だったわね。
あれはまさに、電子戦(EW)の極みだった。
野本
チャンネル権という名の周波数帯域を巡る争いですね。
亀山
姑は時代劇、旦那は野球、子供はアニメ。
あたしが見たいドラマは、常に後回し。
だからあたしは、リモコンの電池をわざと「接触不良」になるように細工したの。
富山
え、地味な嫌がらせ……。
亀山
「あら〜、壊れちゃったかしら? 手動で変えるしかないわねぇ」って言って、チャンネル争いを面倒くさいものに変えたの。
面倒くさくなれば、敵は撤退する。
結果、リビングのテレビは「誰も見ない黒い箱」になり、あたしはキッチンにある自分専用の小型テレビで悠々とドラマを見たわ。
野本
敵の兵站(利便性)を断つことで、戦わずして勝つ。
孫子の兵法にも通じる戦略眼です。
第3章:戦後処理と相互確証破壊(MAD)
シーン:バックヤード・終盤
富山
すごい……。
亀山さんの家って、毎日がサスペンスだったんですね。
で、今はどうなんですか?
旦那さん、定年退職されたんですよね?
亀山
ええ。今の我が家は「デタント(緊張緩和)」の時期を迎えているわ。
かつての敵国(旦那)は、退職金という名の国家予算を失い、弱体化したわ。
今じゃ、リビングのソファーで一日中寝ている「沈底機雷」よ。
野本
動かない分、処理が厄介なタイプですね。
掃除の時に邪魔になるという。
亀山
そうなのよ。
でもね、完全に無力化したわけじゃないの。
今の私たちは「相互確証破壊(MAD)」の均衡状態にあるの。
富山
マッド? 狂ってるってこと?
野本
Mutually Assured Destruction。
「どちらかが手を出せば、双方が破滅する」という恐怖の均衡です。
亀山
旦那はあたしに「飯はまだか」とは言わない。
なぜなら、あたしが「熟年離婚」という名の核ミサイルの発射ボタンに常に指をかけていることを知っているからよ。
逆に、あたしも旦那を粗大ゴミ扱いしすぎない。
なぜなら、彼がいなくなると、年金という名の補給物資が減って、あたしの推し活(K-POPアイドルの追っかけ)に支障が出るからよ。
富山
(呆気にとられて)
な、なんか……一周回って仲が良いような、殺伐としてるような……。
結婚って、そういうものなんですか?
亀山
(タッパーの蓋をパチンと閉めて)
富山ちゃん。
結婚生活に「勝利」はないの。あるのは「生存」だけ。
相手を沈めず、自分も沈まず、ただ同じ海域で、付かず離れずの距離を保って浮いている。
それが「夫婦」っていう潜水艦の航行術よ。
野本
(立ち上がり、深々と敬礼する)
……勉強になります、提督。
本日の講義は、『深淵の交戦規定』の実践編として、私の記憶デバイスに深く刻まれました。
亀山
(立ち上がり、重い業務用洗剤のボトルを2本、軽々と持ち上げる)
さ、休憩終わり!
野本ちゃん、富山ちゃん、総員配置につきなさい。
ランチのピークが来るわよ。
今日の客波は荒れるわ。魚雷には気をつけて!
富山
は、はーい!
野本
アイ・サー!
メインバラスト・ブロー。浮上して迎撃します!
(亀山を先頭に、野本と富山がバックヤードから出ていく。
その亀山の背中は、数々の海戦を生き抜いた戦艦のように、頼もしく、そして少し哀愁を帯びていた)
野本
家庭内冷戦史。
それは、教科書には載らない、名もなき主婦たちの戦いの記録である。
私は誓った。いつか自分が家庭を持つ時が来たら、まずは高性能な食洗機を導入しようと。
(完)




