第301章 第3章:キャンパスの収束帯(コンバージェンス・ゾーン)
シーン1:大学・中庭
(秋晴れのキャンパス。芝生やベンチで学生たちが談笑している。
野本はベンチに座り、飲み終わった紙パックのジュースをストローで「ズズズ……」と吸い切りながら、遠くを見つめている。
その目は、どこか悟りを開いた修行僧のようである。
隣には、ファッション誌を読んでいる重子。)
重子
……ねえ、野本さん。
さっきから一点を見つめて動かないけど、大丈夫?
単位、ヤバかった?
野本
(ゆっくりと首を振る)
いいえ、重子さん。
私は今、世界の「音」を聞いているのです。
重子
音? テニスサークルの掛け声とか?
野本
それも含みます。
ここ中庭は、講義棟と食堂棟に挟まれ、音波が屈折・反射して集まる「収束帯」です。
あちらのカップルの痴話喧嘩、向こうの就活生の愚痴、そして遠くの工事現場のドリル音……。
それら全てのノイズが、私の聴覚センサーに流れ込んできます。
重子
相変わらず耳がいいねぇ。で、何か面白いの聞こえた?
野本
いいえ。聞こえるのは「平和な雑音」だけです。
ですが、それが尊いのです。
私は『深淵の交戦規定』を読了しました。
今の私は、第15章「封印された真実」における、ライアン提督の心境です。
激闘の末、誰も死なずに済んだ海。その静けさを噛み締めているのです。
重子
へぇ、読み終わったんだ。
結局どうなったの? 悪い潜水艦をやっつけたの?
野本
「やっつける」という概念は、三流のアクション映画のものです。
この物語の結末は、もっとこう……侘び寂び(わびさび)があります。
敵だったソ連の艦長と、米軍の艦長が、数十年後に再会し、ウォッカを酌み交わすのです。
言葉は多くありません。
ただ、生き残った潜水艦の鉄屑を送り合うだけ。
重子
鉄屑? なにそれ、嫌がらせ?
野本
友情です。
かつて互いを殺そうとした鉄の塊が、文鎮になって机の上に置かれる。
それが「抑止力」の成れの果てであり、究極の平和利用なのです。
シーン2:中庭・山田の乱入
(そこへ、革ジャンを着た山田が、コーヒーを片手に颯爽と(と自分では思っている感じで)現れる)
山田
よお、野本に重子ちゃん。
何の話? 鉄屑?
最近のリサイクル・アートの話? 俺もSDGsには関心あるけどさ。
重子
あ、山田くん。
ううん、野本さんが読んでる潜水艦の本の話。
山田
(野本の膝の上の本を見て)
ああ、潜水艦か! 男のロマンだねぇ。
『深淵の交戦規定』? 知ってる知ってる(知らない)。
やっぱりさ、深海の戦いっていうのは、男の本能を揺さぶるよね。
見えない敵を探して、魚雷発射! ドカーン! みたいな?
あの緊迫感と爆発の爽快感がたまんないよな。
野本
(ゆっくりと眼鏡を押し上げ、山田を冷ややかな目で見上げる)
……山田さん。
あなたの認識は、水深10メートルの浅瀬でパチャパチャと水遊びをしているレベルです。
山田
えっ。
野本
現代の潜水艦戦の本質は「ドカーン」ではありません。
「撃てるのに、撃たない」。その極限の自制心にあります。
相手の喉元にナイフを突きつけながら、同時に相手のナイフが自分の心臓に触れているのを感じる。
その状態で、数時間、数日間、無言で見つめ合う。
それが「深淵」です。
山田
い、いや、俺もそういう心理戦的なのは好きだよ?
『レッド・オクトーバー』とかさ。
野本
このドキュメンタリーにおける白眉は、第12章です。
米原潜シャイアンは、敵艦のミサイルハッチが開く音を聞き、発射キーを回しました。
しかし、敵艦長からの「故障だ(Malfunction)」という、ノイズ混じりの悲痛な通信を聞き、コンマ数秒で指を止めた。
もしあそこで山田さんが艦長だったらどうしますか?
「ヒャッハー! 魚雷発射! 爽快!」と叫んでボタンを押し、その15分後にニューヨークとモスクワが火の海になっていたでしょう。
山田
(タジタジになって)
俺だって空気くらい読むよ!
ていうか、なんで俺が世界を滅ぼす前提なんだよ。
野本
あなたの先日のサークル費未納逃亡事件における「危機管理能力の欠如」を見る限り、核ボタンを任せるには不安が残ります。
重子
(クスクス笑いながら)
野本さん、厳しい〜。
シーン3:中庭・平和への魚雷
野本
(空を見上げて)
……今日の空は青いですね。
山田
話変えてきたな。
野本
いいえ、繋がっています。
私たちがこうして、中庭で偏差値の低い会話をし、山田さんが知ったかぶりをして恥をかき、重子さんが笑っていられるのも……。
1985年のあの冬、北極海で二人の男が「引き金を引かなかった」からです。
そのバタフライ・エフェクトの結果として、今の私たちの「暇な時間」が存在するのです。
山田
……なんか、壮大な話にされてるけど。
要は「平和でよかったね」ってこと?
野本
(立ち上がりながら)
左様。
平和とは、退屈なものです。
ドラマチックな爆発も、英雄的な死もありません。
ただ、消費された紙パックジュースと、どうでもいい会話が残るだけです。
(野本は、空になった紙パックを手に持つ。
数メートル離れたゴミ箱を見据える)
野本
ファイアリング・ソリューション(射撃解)、算出。
目標、可燃ゴミ箱。
距離、3.5メートル。風速、微風。
重子
野本さん、投げるの? ちゃんと分別してよ?
野本
安心してください。ストローのプラスチック包装は除去済みです。
……チューブ・ワン、発射。
(野本の手から放たれた紙パックは、美しい放物線を描く。
それはまるで、静かに海を行くMk48魚雷のように。
紙パックは、ゴミ箱の投入口に吸い込まれるように「スポッ」と入った)
野本
(小さくガッツポーズ)
目標命中(Target Hit)。
轟音なし。被害なし。
これぞ、完全なる平和的解決です。
山田
(拍手しながら)
おー、ナイスシュート。
……なんか悔しいけど、野本にかかるとゴミ捨てもカッコよく見えるな。
重子
野本さん、その本読んでから、なんか一皮むけたね。
野本
(鞄を持ち直して)
知識は人を自由にします。たとえそれが、潜水艦の圧壊深度についての知識であっても。
さて、そろそろ次のパトロール(講義)の時間です。
「現代社会論」。……教授の話は、氷の下のノイズよりも眠気を誘いますが、耐え抜いてみせます。
重子
私も行くー。待ってよ。
山田
俺も行くわ。サークル費、今度払うからさ!
野本
(歩き出しながら、背中で語る)
山田さん。
「今度」という言葉は、潜水艦乗りには禁句です。
海の下に「明日」があるとは限らないのですから。
山田
重っ! だから重いって!
(三人が並んで講義棟へ歩いていく。
その背中は、どこにでもいる大学生だが、野本の影だけが、心なしか潜水艦の形に見えるような、見えないような……)
野本
こうして、『深淵の交戦規定』を巡る私の7日間の航海は終わった。
世界は相変わらず騒がしく、不安定だ。
けれど、耳を澄ませば聞こえてくる。
深海の底で、誰かが静かに平和を支えている音が。
野本ともうします。今日も私は、平凡な海を微速前進していく。
(画面フェードアウト。エンドロールへ)
(完)




