第300章 第2章:暇つぶしサークル、深度400フィートへ
シーン1:サークル部室(午後)
(大学の古びた部室棟の一室。窓には暗幕代わりのダンボールが貼られ、部屋は真っ暗。
中央にあるテーブルの上で、赤いセロファンを貼った懐中電灯が一本だけ点灯している。
不気味な赤い光が、三人の顔を下から照らしている。)
橋本副部長
……あの、野本さん。
これ、何の時間ですか?
野本
(真顔で)
「リグ・フォー・レッド(赤色灯管制)」です、副部長。
潜水艦内では、夜間や戦闘時に照明を赤く落とします。
これにより、乗員の夜間視力を維持しつつ、計器の視認性を確保するのです。
橋本副部長
いや、今は昼の3時だし、ここ部室だし。
それに、すごく空気が悪いんですが。窓開けませんか?
野本
許可できません。
現在、我々は深度400フィートを潜航中。CO2スクラバー(二酸化炭素除去装置)を停止し、極限状態における酸素欠乏が精神に与える影響……いわゆる「コンバット・ストレス」を再現しています。
小宮部長
(手元で何かを工作しながら)
私は嫌いじゃないわよ、この雰囲気。
閉塞感の中にこそ、芸術は宿るの。
ムンクの『叫び』も、きっとこんな空気の悪い部屋で描かれたに違いないわ。
野本
さすが部長。理解が早いです。
それで、兵装の進捗はいかがですか?
小宮部長
ええ、できてるわよ。
「Mk48 ADCAP魚雷」、部長カスタム。
(部長がテーブルの上にドンと置いたのは、トイレットペーパーの芯とペットボトルをガムテープで繋ぎ合わせ、アルミホイルを巻いた、謎の銀色の細長い物体。
先端にはなぜか、折り紙で作った「鶴」が貼り付けられている)
橋本副部長
……なんですか、これ。魚雷? 先っぽに鶴がいますけど。
小宮部長
平和への祈りよ。
殺傷能力と、平和への希求。そのアンビバレンツな感情を表現してみたの。
名付けて「千羽鶴式誘導魚雷」。
野本
(まじまじと観察して)
……流体力学的には最悪の形状ですが、コンセプトは評価します。
敵のソナー員も、まさか魚雷から「折り紙の音」がするとは思わないでしょう。
これは強力な音響欺瞞になり得ます。
橋本副部長
なるわけないだろ。水に濡れてふやけて終わりだよ。
シーン2:部室・緊張の瞬間
(その時、廊下から「コツ、コツ、コツ……」という足音が聞こえてくる)
野本
(サッと手を挙げて制止する)
……トランジェント(異音)。
方位0-9-0。廊下側です。
小宮部長
(声を潜めて)
敵?
野本
(耳を澄ませて)
ブレードレート(歩調)分析……。
一定のリズムですが、若干の躊躇いがあります。
革靴のヒール音……体重は軽め……。
これは、我々のサークルの様子を伺いに来た、新入生ではありません。
……山田さん(同級生)です。
橋本副部長
なんで足音だけで山田ってわかるんだよ。
野本
彼は先週、「サークル費を払う」と言って逃げたままです。
その負い目が、足音のドップラー効果に微妙な「ゆらぎ」を生じさせています。
小宮部長
(魚雷を持ち上げて)
撃つ?
橋本副部長
撃たないでください。ただの集金です。
野本
待ってください。
山田さんはドアの前で停止しました。
……ノックをするか、それとも立ち去るか。
彼は今、バッフル(ドアの向こう側)でこちらの様子を伺っています。
もしここで我々が物音を立てれば、彼は「あ、やっぱり中に人いるんだ。気まずいな」と思って逃走します。
逃がせば、サークル費500円は回収不能になります。
小宮部長
500円は大きいわね。画用紙が買えるわ。
野本
これより「完全静粛状態」に移行します。
呼吸を浅く。心臓の鼓動すら悟られないように。
(真っ暗な部室で、三人が息を止めてドアを凝視する。
シュールな沈黙が1分ほど続く。
橋本副部長のお腹が「グゥ〜」と鳴る)
野本
(小声で)
副部長! キャビテーション・ノイズです!
橋本副部長
(小声で)
生理現象だよ! 酸欠で腹減ったんだよ!
シーン3:部室・心理戦の果て
(廊下の足音は、結局ノックすることなく去っていった)
野本
……接触消失。
山田さんは去りました。サークル費の回収に失敗。
小宮部長
残念ね。
私の千羽鶴魚雷を発射するチャンスだったのに。
橋本副部長
(ため息をついて)
もういいですか? 酸欠で頭痛くなってきました。
換気しましょうよ。
野本
まだです、副部長。
『深淵の交戦規定』第11章を思い出してください。
今、副部長はソ連のコルサコフ艦長。そして部長は、核ミサイル発射を迫るソコロフ政治将校です。
そして私は、あなた方に銃口を向けている米原潜シャイアンのライアン艦長です。
橋本副部長
配役が渋滞してるよ。なんで僕がソ連側なんですか。
野本
あなたは理系だからです。
コルサコフ艦長は、論理と人道の間で揺れ動くインテリでした。
さあ、決断してください。
このまま部室の空気が淀んで全滅するか(自沈)、それともプライドを捨てて窓を開け、新鮮な空気を取り入れるか(浮上・降伏)。
小宮部長
(グルーガンを拳銃のように構えて)
同志艦長、窓を開けるなんて許さないわよ。
この部屋の空気は、我がサークルの伝統と埃が詰まった聖域なの。
これを開放することは、資本主義の風に魂を売ることよ。
橋本副部長
いや、ただのカビ臭い空気ですって、部長。
もう限界です。浮上します!
野本
(定規を発射レバーのように握って)
おっと、勝手な行動は許しません。
もし窓に手をかけたら、私の定規魚雷が副部長の脇腹を突きます。
橋本副部長
なんなんだよ、この茶番!
ていうか野本さん、君はどっちの味方なんだ!
野本
私は「物語」の味方です。
この極限状態こそが、平穏な大学生活におけるスパイス……。
(その時、野本がふらりとよろめく)
野本
……おや。
視界が狭まってきました。グレーアウトです。
小宮部長
野本さん?
あら、私もなんだか、千羽鶴が二千羽に見えてきたわ……。
橋本副部長
だから言ったじゃないですか! 本気で酸欠ですよ!
緊急浮上!!
(橋本副部長が必死に窓のダンボールを剥がし、窓を全開にする。
夕方の新鮮な空気が、部室に流れ込む)
シーン4:部室(夕方)
(西日が差し込む部室。
三人は床に座り込んで、ゼーゼーと荒い息をついている)
野本
(深呼吸して)
……プハァ。
外気圧、正常。酸素濃度、回復。
我々は生還しましたね。
小宮部長
すごかったわ……。
窒息寸前に見た幻覚、あれこそが「深淵」だったのね。
次の作品のインスピレーションが湧いたわ。タイトルは『肺胞の断末魔』。
橋本副部長
(ゲッソリして)
もう二度と付き合いませんよ、こんな遊び。
死ぬかと思いました。
野本
副部長。
それが「サブマリナー」の日常です。
今日、我々は部室という鉄の棺桶の中で、生死を共有しました。
これで我々の結束はより強固になったはずです。
橋本副部長
結束っていうか、共倒れ未遂だよ。
野本
さて、今日の活動はこれまで。
帰りにコンビニに寄りましょう。
減圧症の予防には、糖分が必要です。
小宮部長
賛成。アイス食べましょ。
サーモクラインの味がするやつ。
橋本副部長
……ただのソーダアイスでしょ、それ。
(三人はふらふらと立ち上がり、部室を出ていく。
テーブルの上には、アルミホイルで作られた千羽鶴魚雷が、夕日に照らされて鈍く光っていた)
野本
こうして、暇つぶしサークルの深度400フィートの冒険は終わった。
世界を救うことはなかったが、とりあえず自分たちの肺活量の限界を知ることはできた。
これもまた、ひとつの「戦果」である。




