第299章 第1章:ファミレス「ジョリーズ」の冷戦構造ドラマ
シーン1:ファミレス「ジョリー」・バックヤード
(昼のピークタイム前。狭い休憩室。パイプ椅子に座り、分厚いクリアファイルに入った原稿を食い入るように読んでいる野本。
野本は地味なグレーのカーディガンに、三つ編み、丸眼鏡。
そこへ、制服に着替えた富山が入ってくる)
富山
おっつー、野本さん。……何読んでんの? また大学のレポート?
野本
(顔を上げずに)
いいえ、富山さん。これは冷戦末期のバレンツ海における、米ソ原子力潜水艦の音響的暗闘の記録です。
富山
……へぇ。またクセすごなやつだね。面白い?
野本
(眼鏡の位置を直して)
極めて興味深いです。
特に、第3章の「バッフルの死角」における、米原潜シャイアンのライアン艦長の判断ですね。
敵艦の後方、スクリュー音が渦巻く聴音不能領域……いわゆる「バッフル」に潜り込み、相手の盲点から追尾する。
これは、まさに我々のバイト生活における「店長の視覚的死角」を利用したサボり……いえ、エネルギー温存戦術に通じるものがあります。
富山
サボりの正当化じゃん。ていうか、そんな難しい本読んでて頭痛くなんない?
野本
痛みはありません。あるのは「水圧」だけです。
富山
水圧?
野本
はい。今の私は、深度400フィートを潜航中です。
富山さん、このドリンクバーの製氷機の音が聞こえますか?
(ゴーッという製氷機の音)
富山
うん、うるさいね。もう古いから。
野本
いいえ、これは北極海の「氷のきしみ(アイス・ノイズ)」です。
この轟音の中に、敵の攻撃原潜ヴィクターIII級が潜んでいるんです。
……シッ、静かに。トランジェント(異音)を聞かれたら、魚雷が飛んできますよ。
富山
(手鏡を見ながら)
魚雷っていうか、店長の「オーダー溜まってるよ!」っていう怒鳴り声なら飛んでくるけどね。
野本
それです。店長の声は、まさにアクティブ・ソナーの「ピン(Ping)」です。
打たれたら最後、こちらの位置が暴露され、追加のシフトをねじ込まれます。
富山
あー、それはヤだ。逃げたい。
野本
逃げるには、サーモクライン(水温躍層)を使うしかありません。
富山
サーモ……なに?
野本
水温の違う層の境目です。そこで音波が屈折し、ソナーを無効化できるんです。
この店で言うと……そうですね、喫煙席と禁煙席の間のエアカーテンのあたりでしょうか。
富山
あそこ、タバコ臭いから店長あんまり近寄らないもんね。
野本
そうです。あそこが我々のサンクチュアリです。
シーン2:ホール(客席)
(ランチタイムのピーク。店内は食器の音と客の話し声で騒がしい。
野本、お盆を持ってホールを移動中。その動きは奇妙に忍び足で、すり足。)
野本
……深度キープ。速力5ノット。静粛航行。
靴底のゴムと床の摩擦音を出してはならない。
お盆の上のグラス同士が触れ合う「カチャン」という音は、深海では「ここにいます、殺してください」と言っているのと同じだ。
私は影。私は誰にも見えない……。
(野本の背後に、ベテランパートの亀山が音もなく忍び寄る)
亀山
野本ちゃん。
野本
(ビクッとして)
……ッ!!
(小声で)
か、亀山さん……。驚かせないでください。心臓が圧壊するかと思いました。
亀山
あらごめんねぇ。野本ちゃんが、なんかこう……万引きGメンみたいな歩き方してるから。
3番テーブル、お子様ランチの旗がないってクレームよ。
野本
(表情を引き締める)
……敵の欺瞞工作ですね。
亀山
ただの入れ忘れよ。早く持ってってあげて。
あ、それとね、さっきバックヤードで富山ちゃんから聞いたわよ。なんか潜水艦の話してるんだって?
野本
はい。亀山さんも興味がおありで?
亀山
(遠い目をして)
わかるわぁ、潜水艦。
あたしもね、嫁いで30年。ずっと家庭という名の閉鎖空間で、姑という名のソナーに聞き耳を立てられながら生きてきたのよ。
ちょっとでもお皿を割る音を出せば、即座に小言という名の爆雷が降ってくる。
あれはまさに、冷戦だったわねぇ……。
野本
亀山さん……。
あなたは、生き残ったベテラン艦長だったのですね。
亀山
今じゃもう、あたしがタイフーン級よ。
ドーンと構えて、旦那なんて魚雷じゃ沈まないわ。
(豪快に笑いながら、片手で重い料理の皿を4つ軽々と持つ
野本
(亀山の背中を見ながら)
……すごい。あの積載量。
亀山さんはヴィクターIII級攻撃原潜かと思っていましたが、どうやら戦略ミサイル原潜の風格を備えているようです。
シーン3:厨房・デシャップ前
(オーダーが次々と入り、戦場のような厨房。
店長がイライラしながら伝票をさばいている)
店長
おい、Aランチまだか! ハンバーグ遅いぞ!
あと富山、15番さんの水!
富山
はーい、ただいまー。
(野本に向かって)
ヤバい、店長のアクティブ・ソナーが連発してる。野本さん、援護して!
野本
了解しました。
私が囮になります。その隙に、富山さんは15番へ急速潜航してください。
富山
意味わかんないけど、お願い!
野本
(店長の前に進み出る)
店長。
店長
なんだ野本! ハンバーグ上がるぞ、持ってけ!
野本
店長。ハンバーグの鉄板から発せられる「ジュウウウ」という音響ですが、これがホールのアンビエント・ノイズ(環境雑音)と共鳴し、お客様の会話を阻害している可能性があります。
音響工学的に見て、ソースのかけ方を工夫することで、このキャビテーション・ノイズを低減できるかと愚考しますが。
店長
……は? お前、何言ってんの?
早く持ってけよ! 冷めるだろ!
野本
(一歩も引かずに)
さらに申し上げますと、先ほどから店長の放つ指示の声の周波数が高すぎます。
これでは高周波ソナーのように、スタッフの精神的鼓膜を圧迫します。
もう少し低周波、たとえばクジラの求愛ソングのようなトーンで指示を出すことは可能でしょうか?
店長
野本ぉぉぉ!! お前、ふざけてんのか!!
バックヤードで皿洗ってろ!!
野本
(小さく敬礼)
アイ・サー。
機関停止。これよりドック入りします。
(野本、富山に目配せをして洗い場へ下がる)
シーン4:バックヤード(シフト終了後)
(着替えて帰る準備をしている野本と富山)
富山
野本さん、さっきはありがとね。おかげで水出し逃げ切れたわ。
でも店長、ガチギレしてたよ?
野本
問題ありません。
あの程度の爆雷攻撃なら、私のメンタルの耐圧殻はビクともしません。
それに、皿洗いは好きなんです。
水の音と泡に包まれていると、自分が深海にいるような気分になれますから。
富山
(苦笑い)
ほんと、野本さんって独特だよね。
で、その本の続きはどうなるの? 潜水艦、沈んじゃうの?
野本
(『深淵の交戦規定』を鞄に入れながら)
これからが本番です。
氷の下の迷宮で、音響のスペシャリストたちが、互いの喉元にナイフを突きつけ合うような心理戦が始まります。
それはまるで、明日のシフト調整会議のような緊迫感です。
富山
あー、明日シフト決めかぁ……。亀山さん休みだし、重くなりそう。
野本
(眼鏡を光らせて)
明日は、私がSOSUS(海底聴音網)になります。
店長の「誰か土日出れない?」という微弱な呟きをいち早く察知し、富山さんに緊急回避コードを送ります。
富山
頼もしいわぁ。よろしくね、シャイアン。
野本
お任せください。
それでは、お先に失礼します。
……潜航開始。
(野本、ドアを開けて西日の当たる外へ出ていく。その背中は、任務を帯びた兵士のように無駄に凛々しい)
富山
(見送りながら)
……野本さんといると、ただのバイトが「プロジェクトX」みたいに思えてくるから不思議だわ。




