第294章 第11章:最終秒読み(Final Countdown)
『深淵の交戦規定』
【軍事技術解説:黙示録のメカニズム】
> (元ソ連海軍 戦略ミサイル部門技術将校 アナトリー・ペトロフの証言)
> 「R-39(NATO名:SS-N-20)ミサイルは、全長16メートル、重量90トンの怪物だ。これを海中から宇宙へ放り出すのは、物理学への挑戦と言っていい。
> 発射シークエンスは精密な時計仕掛けだ。
> まず、艦を『ホバリング(定点停止)』モードにする。巨大なタイフーンを微動だにさせないために、自動トリムシステムが海水を猛烈な勢いで出し入れする。
> 次にミサイルサイロへの『注水』と『均圧』。ハッチを開ける前に、サイロ内の圧力を海水圧と同じにするのだ。
> そしてハッチが開く。この時、艦内には『ゴーン』という、墓石が動くような重い音が響く。
> 最後に『ガス・ダイナミック方式』でミサイルを射出する。固体ロケットに点火するのは海面を出てからだ。
> アメリカの潜水艦乗りたちは、この一連の音を『終わりの始まりのシンフォニー』と呼んでいたそうだな」
>
1985年11月14日 08:05(現地時間)
ノルウェー海 中部海盆
USS Cheyenne
深度: 600フィート 距離: 4,000ヤード(約3.6km)
「発射管注水音、継続中! 1番から4番まで、連続注水!」
ソナー長ハルゼーの声は、恐怖で裏返る寸前だった。
「注水速度が速い! これは演習モードじゃありません。実戦(War Shot)設定です!」
発令所の空気は、張り詰めた弓の弦のようだった。
ライアン艦長は、火器管制コンソール(WCS)の前に立ち尽くしていた。
彼の右手は、発射承認キー(Permission to Fire Key)の差し込み口にかかっている。
「距離4,000。魚雷航走時間、約3分」
兵雷長(Weps)が、冷や汗を流しながら読み上げる。「敵艦はホバリング中。完全に静止しています。……外しようがありません」
「撃てば、160人の乗員が死ぬ」
副長のサリバンが、祈るように呟いた。「そして、ソ連はそれを『宣戦布告』と受け取るでしょう」
「撃たなければ」ライアンは言葉を遮った。「200発の核弾頭がアメリカ東海岸に降り注ぐ。数千万人が死ぬんだ」
彼はキーを差し込み、90度回した。
カチリ。
その小さな金属音は、艦内の誰もが聞き取れるほど重かった。
「兵雷長、1番、2番発射管、発射準備(Make ready)。
ソナー、ハッチ開放音(Opening noise)を確認したら、それが引き金だ。
『開いた』と叫べ。その瞬間に私が命じる」
1985年11月14日 08:08
ソ連戦略原潜 Tk-208 "ドミトリー・ドンスコイ"
深度: 50メートル(ミサイル発射深度)
「深度安定。トリム調整完了」
操舵手が、震える声で報告する。
巨大な船体は、まるで海底に根を張ったかのようにピタリと静止していた。
第19区画、ミサイル発射管制室。
コルサコフ艦長は、目の前の発射パネルに並ぶ緑色のランプを見つめていた。
隣には、拳銃のマカロフPMを腰のホルスターに手をかけた政治将校ソコロフが立っている。
「なぜ躊躇する! キーを回せ!」ソコロフが怒鳴る。
「……目標データの入力確認中だ」コルサコフは時間稼ぎをした。「座標に誤差があれば、ミサイルは無駄になる」
「嘘をつくな! システムは『準備完了(Ready)』を示している!」
ソコロフは、自分の首から下げている「政治認証キー」をコンソールに叩きつけた。
「私は既に自分のキーを回した。あとは貴様の『艦長キー』だけだ。回せ! これは党の命令だ!」
コルサコフは、脂汗に濡れた手でキーを握った。
彼の脳裏に、故郷の家族の顔が浮かぶ。そして、これから自分が焼き払おうとしているアメリカの都市の風景も。
「ソコロフ同志。……本当にこれが『演習』なのか?」
コルサコフは低い声で問うた。「モスクワからのコードは『Z-1』だった。だが、それに続く『認証サフィックス(末尾記号)』が欠けていた。君は気付いていたはずだ」
「通信エラーだ! 状況は切迫している!」
「いいや。サフィックスがない命令は無効だ。これは罠だ、あるいはシステムの暴走だ」
コルサコフはキーから手を離した。「私は回さん。世界を終わらせる責任は負えん」
「裏切り者め!」
ソコロフがホルスターから銃を抜いた。
銃口がコルサコフの眉間に向けられる。
「貴様を処刑し、副長にキーを回させることもできるのだぞ」
その時、艦全体が低く、重く振動した。
ゴウン……ゴウン……
「なんだ?」ソコロフが視線を彷徨わせる。
「サイロハッチだ」コルサコフが青ざめる。「自動シーケンスか!? 誰かが手動で開けたのか!?」
USS Cheyenne 発令所
「トランジェント! サイロハッチ開放音! 1番、2番、3番、4番!」
ハルゼーの絶叫。
「敵艦、発射準備完了! ミサイル出ます!」
ライアン艦長の目が、猛禽類のように細められた。
もう猶予はない。ミサイルがチューブを出てしまえば、潜水艦を沈めても意味がない。
「発射(Shoot)!」
ライアンの声と同時に、兵雷長がトリガーを押し込んだ。
バシュッ! バシュッ!
圧縮空気の放出音と共に、2本のMk48 ADCAP魚雷が Cheyenne の発射管を飛び出した。
「魚雷射出! ワイヤー正常!
目標まで距離3,800!
到達まで、あと1分40秒!」
「誘導しろ!」ライアンが叫ぶ。「確実にミサイル区画を叩け! 潜航不能にするだけじゃダメだ、完全に破壊(Total Kill)しろ!」
ソ連戦略原潜 Tk-208 "ドミトリー・ドンスコイ"
「魚雷接近! 距離3キロ! アメリカ軍です!」
ソナー員の悲鳴が、艦内放送で響き渡る。
ミサイル管制室の空気が凍りついた。
ソコロフは銃を持ったまま呆然とした。「撃ってきた……? 本当に撃ってきたのか?」
コルサコフは一瞬で軍人に戻った。
「回避行動! 面舵一杯! 緊急潜航!」
彼はマイクに向かって叫んだ。「発射中止! サイロハッチ閉鎖! 急げ!」
「間に合いません! 魚雷、アクティブ・ピンを打ってきます!」
コルサコフは、目の前のソコロフから銃をひったくり、コンソールに向けて発砲した。
バァン! バァン!
火花が散り、発射管制システムの一部が破壊される。
「何をする!」ソコロフが叫ぶ。
「これでミサイルは撃てない! 戦闘だ! 船を守るぞ!」
コルサコフは叫んだ。「デコイ全弾放出! 衝撃に備えろ!」
海中:死の接近
Cheyenne の放ったMk48魚雷は、加速しながらタイフーンに迫る。
その先端のソナー・シーカーは、巨大なタイフーンの船体――二本の耐圧殻が並ぶ独特の形状――を明確に捉えていた。
タイフーンは巨体をよじらせ、開いたままのミサイルハッチから海水を巻き込みながら、必死の回避機動に移る。
しかし、開いたハッチが抵抗となり、動きは鈍重だ。
「魚雷、目標を捕捉(Acquire)!」
Cheyenne のスピーカーから、魚雷のシーカー音が響く。
ピン……ピン……ピピピピピッ!
ロックオンの連続音。
「目標まで1,000ヤード!」
「800!」
「500!」
ライアン艦長はモニターを見つめ、心の中でカウントダウンをした。
(許せ。……地獄で会おう)
【ドキュメンタリー:運命の分岐点】
(海軍史家 アーサー・J・カニンガムの解説)
「歴史書には、この瞬間、第三次世界大戦が始まったと記されるはずでした。
ライアン艦長の判断は正しかった。敵が発射ハッチを開けた以上、撃つしかなかった。
しかし、運命の皮肉と言うべきか、あるいは神の悪戯か。
魚雷が命中する寸前、海中には『もう一つの音』が響き渡ったのです。
それは爆発音ではありませんでした。
人類の技術を超えた、理解不能な『介入』とも言うべき音響現象でした」




