第293章 第10章:深海の心理戦(Psychological Warfare)
『深淵の交戦規定』
【軍事心理学証言:鋼鉄の棺】
> (海軍臨床心理学者 エミリー・スタントン博士のインタビュー)
> 「潜水艦乗り(サブマリナー)は選ばれたエリートですが、彼らも人間です。
> 閉鎖空間、人工照明、リサイクルされた空気。そして何より『常に誰かに聴かれている』という強迫観念。
> 戦闘中のアドレナリンが出ている時はいいのです。問題はその後です。
> 『ハント・アンド・ウェイト(捜索と待機)』の時間が長引くと、脳は情報の空白を埋めようとします。存在しない音を聞き、影の中に怪物を見る。
> これを『音響パレイドリア効果』と呼びます。ソナー員が海老の出す音を、敵の魚雷発射管の音と聞き間違えただけで、核戦争が始まる可能性があるのです」
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1985年11月14日 04:00(船内時間)
ノルウェー海 南部海盆
USS Cheyenne
深度: 700フィート 速力: 5ノット
戦闘から14時間が経過していた。
ヴィクターIIIとの激闘は遠い過去のようだった。今の Cheyenne を支配しているのは、重苦しい静寂と、じわじわと精神を侵食する疲労だった。
発令所の空気は淀んでいる。CO2スクラバー(二酸化炭素除去装置)は稼働しているが、長時間の「完全静粛状態」維持のため換気能力を落としており、男たちの汗と、機械油、そしてアミン(空気清浄剤特有の生臭い臭い)が充満していた。
「……聞こえません」
ソナー長ハルゼーの声は嗄れていた。「生物雑音のみ。鯨の鳴き声、スナッピング・シュリンプ(テッポウエビ)の破裂音。……タイフーンはいません。奴は『ブラックホール』になりました」
ライアン艦長は、冷めたコーヒーの入ったマグカップを握りしめたまま、赤い照明に照らされた海図を見つめていた。
タイフーン級は広大な海に消えた。あの巨体で、信じられないほどのステルス能力を発揮している。
「奴らは止まっているのか、それとも超微速で移動しているのか」
ライアンの目には赤い血管が浮き出ていた。「海底の岩盤に着底して、エンジンを切っている可能性もある」
「艦長」副長のサリバンが小声で話しかける。「ソナーチームを交代させるべきです。ハルゼーは12時間以上モニターに張り付いています。集中力が限界です」
「代わりはいない。ミラーはまだ耳鳴りを訴えている。ハルゼーの耳だけが頼りだ」
ライアンは拒否した。「この静寂こそが、奴らの武器なんだ。我々を疲れさせ、ミスを誘っている」
1985年11月14日 05:30
ソ連戦略原潜 Tk-208 "ドミトリー・ドンスコイ"
深度: 150メートル(ホバリング中)
巨大な船体は、深海の闇の中で静止していた。
原子炉の出力は最低限に絞られ、冷却ポンプも自然循環モード。あらゆる回転機器が停止し、この4万トンの巨体は、ただの冷たい金属の塊と化していた。
艦内では、コルサコフ艦長が自分のキャビンで、政治将校ソコロフと向き合っていた。
「いつまで隠れているつもりだ、同志艦長」
ソコロフは苛立ちを隠そうともしなかった。「護衛の K-324 は、我々のためにその身を犠牲にしたのだぞ。彼らの死を無駄にするつもりか」
「我々は生き延びた。それが勝利だ」コルサコフは静かに答えた。「アメリカの攻撃原潜はまだ近くにいる。今動けば、ヴィクターの二の舞だ」
「時間は待ってくれない」ソコロフは腕時計を叩いた。「モスクワとの定時交信の時間は過ぎている。最高司令部は、我々が沈んだと思っているかもしれない。あるいは……裏切ったと」
「無線ブイを上げれば、位置がバレる」
「構わん!」ソコロフが机を叩く。「『最終命令』を受信せねばならんのだ! これは演習ではないと言ったはずだ。国家の存亡がかかっている!」
コルサコフは、目の前の男の狂気を読み取った。
この男は、本当にミサイルを撃つつもりだ。「デモンストレーション」という名目で、世界を焼き尽くす引き金を引こうとしている。
「……わかった」コルサコフは譲歩したふりをした。「だが、今はまだ危険だ。あと数時間、海流が変わるのを待つ。そのノイズに紛れてブイを放出する」
「3時間だ」ソコロフは冷酷に告げた。「それ以上は待たん。私の権限で通信士に命令を下すぞ」
USS Cheyenne ソナー室
ハルゼー兵曹長の意識は、現実と夢の狭間を漂っていた。
ヘッドフォンから聞こえる「ザー」というホワイトノイズが、時折、人の話し声や、懐かしい音楽のように聞こえる。聴覚の幻覚だ。
(集中しろ……集中しろ……)
彼は自分の頬をつねった。
ウォーターフォール画面の緑色の滝。その中に、不自然な揺らぎがある気がする。
「……艦長」
ハルゼーの声が発令所の沈黙を破った。
「どうした、接触か?」ライアンが即座に反応する。
「いえ、確信が持てません。方位1-9-0。非常に低い周波数……10ヘルツ以下。機械音というよりは、流れの変化のような……」
「海流か?」
「わかりません。ですが……『違和感』があります。そこだけ、生物雑音が避けて通っているような……」
ライアンは判断を迫られた。
疲弊したソナー員の「勘」を信じるか。それとも、ただの自然現象として無視するか。
もしハルゼーが幻覚を見ているなら、無駄な捜索でこちらの位置を晒すことになる。だが、もしそれが「静止しているタイフーン」だとしたら?
「舵、右5度」ライアンは命じた。「ソナーの指向性を変えて三角測量を行う。アクティブは打つなよ。忍び足で近づく」
1985年11月14日 08:00
USS Cheyenne 医療室
「カフェインの過剰摂取です、艦長」
軍医のドク・コナーズ大尉は、ライアンにビタミン剤を手渡しながら苦言を呈した。「心拍数が上がっています。判断力が鈍りますよ」
「眠っている暇はないんだ、ドク」ライアンは錠剤を水なしで飲み込んだ。
「乗員たちも限界です」ドクはカーテンの向こう、簡易ベッドで泥のように眠る魚雷員たちを指した。「恐怖による精神的消耗です。いつミサイルが飛んでくるか分からない状況で、暗闇に閉じ込められている。……もしタイフーンを見つけても、彼らは引き金を引けますか?」
「引かせるさ」ライアンは低い声で言った。「それが仕事だ」
その時、艦内スピーカーから、全乗員の背筋を凍らせる音が響いた。
『トランジェント! 方位1-9-0! 金属音!』
ライアンは弾かれたように発令所へ走った。
発令所
「今の音は何だ!」
ハルゼーの目は完全に見開かれ、覚醒していた。「明瞭です! ハッチの開放音! ……ミサイルハッチではありません。もっと小さい。通信ブイ、あるいは曳航アンテナの射出音です!」
「通信ブイだと?」ライアンがコンソールに飛びつく。「奴ら、受信しようとしているのか!」
ソ連戦略原潜 Tk-208 "ドミトリー・ドンスコイ"
「ブイ、深度10に到達」通信士が報告する。「VLF(極超長波)受信待機」
コルサコフ艦長は、艦橋で息を潜めていた。
ブイを出す際の機械音(ウィンチの作動音)は、静寂な海では鐘の音のように響く。もし近くにアメリカ原潜がいれば、必ず聞こえたはずだ。
「受信開始……暗号コード確認」
プリンターがカタカタと音を立てて紙を吐き出す。
ソコロフ政治将校が、まるで宝物のようにその紙をひったくった。
彼の顔に、恍惚とした笑みが浮かぶ。
「来たぞ。モスクワからの『ゴー・コード』だ。
同志艦長、直ちに発射深度へ浮上せよ。目標パッケージ『Z-1』。ワシントン、ニューヨーク、ノーフォークだ」
コルサコフは紙を覗き込んだ。
確かに、そこには最高度の攻撃命令コードが記されていた。
だが、彼はためらった。これは狂気だ。本当に世界を終わらせるのか?
「艦長!」ソコロフが叫ぶ。「命令違反で即決銃殺にするぞ! 総員配置! ミサイル発射準備!」
USS Cheyenne 発令所
「目標から新たなノイズ!
注水音(Flooding)! ……バラストタンクではありません。ミサイルチューブへの注水音です!」
ハルゼーの声が絶叫に変わる。
「タイフーン、発射シークエンスに入りました! 核ミサイルを撃つつもりです!」
発令所の時間が止まった。
ついにその時が来た。冷戦の悪夢が現実になる瞬間。
ライアン艦長の中で、迷いが消えた。
「総員、攻撃配置(General Quarters)!
これは訓練ではない。繰り返す、これは訓練ではない。
目標、タイフーン級原潜。
交戦規定に基づき、先制攻撃によりこれを撃沈する」
彼は副長を見た。
「発射管1番、2番。目標の艦首と、中央部を狙え。
……確実に殺せ。反撃のチャンスを与えるな」
【ドキュメンタリー:最後の猶予】
(元NSC(国家安全保障会議)スタッフの回想)
「あの時、ホワイトハウスとクレムリンのホットラインは繋がっていました。
しかし、海の下では通信ラグがある。地上で『待て』と言っても、現場には届かない。
Cheyenne のライアン艦長は、目の前で銃を抜こうとしている敵を見ていたのです。
彼に『撃つな』と言う権利は、誰にもありませんでした」




