第287章 第3章:バッフルの死角(Clearing the Baffles)
『深淵の交戦規定』
【軍事戦術解説:バッフル(死角)の呪縛】
> (元米海軍潜水艦学校教官 トーマス・“パッチ”・ウィルソンの講義)
> 「諸君、潜水艦のソナーは『耳』だが、全方位聞こえるわけではない。最大の弱点は自分の後ろだ。
> 艦尾には巨大なスクリューがあり、そのキャビテーション・ノイズがソナーの聴力を奪う。さらに船体自体が前方の音を遮蔽する。この後方60度ほどの聴音不能領域を『バッフル(Baffles)』と呼ぶ。
> 敵潜水艦にとって、君のバッフルに入ることは、背後から銃を突きつけるのと同じだ。君は気づかないまま、魚雷を撃ち込まれることになる。
> だからこそ、我々は定期的に『バッフル・クリア』を行う。艦を蛇行させ、死角を覗き見るのだ。だが、それは同時に、曳航ソナー(テイル)を振り回し、自らの位置を暴露するリスクも孕んでいる」
>
1985年11月13日 02:20(現地時間)
バレンツ海
USS Cheyenne
深度: 650フィート 速力: 10ノット
「とんでもないカウボーイだ……」
発令所の空気は、死神とキスをした直後のような安堵と恐怖が入り混じっていた。
ヴィクターIII級原潜は、Cheyenne の頭上わずか数百メートルを高速で通過していった。その強烈な水流が船体を揺さぶり、コーヒーカップが床で砕け散っていた。
「被害状況(Damage report)!」ライアン艦長が叫ぶ。
「機関室、異常なし。水密保持。ですが、曳航ソナー(TB-16)のケーブルに過度な張力がかかりました。断線は免れましたが、感度が低下しています」
「ソナー、目標の状況は?」
ハルゼー兵曹長の声には焦りが滲んでいた。「ヴィクターは南へ離脱中。高速航行のためノイズまみれで、位置は明確です。……ですが艦長、問題は『鯨』です」
「見失ったか?」
「ヴィクターの爆音と、通過時の乱流で、低周波帯がかき消されました。現在、パッシブ・ソナーはホワイトアウト状態。タイフーンの反応、消失(Lost contact)」
ライアンはコンソールを叩いた。「やられたな。あの『狂犬』はただ吠えかかってきたわけじゃない。煙幕を張りやがったんだ」
ヴィクターIIIの突撃は、精緻に計算された陽動だった。その大騒音の裏で、タイフーンは推力を絞り、あるいはコースを変え、闇に溶け込んだのだ。
「副長、君ならどこへ逃げる?」
サリバン少佐は海図を指でなぞった。「北へ戻るか、あるいは東の沿岸部へ……いえ、彼らの目的は大西洋への突破です。だとしたら、ヴィクターの陰に隠れて追従しているか、あるいは……」
「あるいは、我々の『バッフル』に潜り込んだか」
ライアンの言葉に、発令所が静まり返る。
もし世界最大の潜水艦が、自分たちの真後ろに音もなく張り付いているとしたら? 考えるだけで背筋が凍る状況だ。
「ヴィクターを追うぞ。奴が護衛なら、必ず本隊の近くにいるはずだ。奴のバッフルに食らいつけ」
1985年11月13日 02:45
ソ連海軍 攻撃型原潜 ヴィクターIII K-324
「アメリカ艦、追尾してきます」
ソナー員が報告する。「距離8,000メートル。我々の航跡をトレースしています」
ヴォルコフ艦長は、口髭についたウォッカの雫を拭った。「しつこい奴らだ。だが、予想通りだ。タイフーンを見失い、唯一の手がかりである我々にしがみつくしかない」
「艦長、どうしますか? 速度を上げて振り切りますか?」
「いや、それでは奴らがタイフーンの再捜索に戻ってしまう。我々が注意を引きつけ続ける必要がある」
ヴォルコフは潜望鏡のグリップを愛おしげに撫でた。「教育してやろう。『クレイジー・イワン(Crazy Ivan)』の時間だ」
「クレイジー・イワン」――西側諸国が恐れるソ連潜水艦の特異行動。
聴音不能な後方を確認するため、あるいは追尾者を振り払うために行う、予告なしの急旋回。巨大な潜水艦がドリフト走行のように海中で身をひるがえす。
もし追尾者が至近距離にいれば、衝突は避けられない。
「面舵一杯(Hard Right Rudder)! 機関、全速後進(All Back Full)!」
USS Cheyenne ソナー室
「目標のスクリュー音、急停止!」
ハルゼーが絶叫した。「キャビテーション消失! ……奴が来ます! バッフル・クリアです!」
それは、高速道路で前を走るトラックが、急ブレーキと同時に横向きになるようなものだ。
発令所
「取り舵一杯(Left Full Rudder)! 左舷機後進、右舷機前進!」
ライアンの反応は反射的だった。
相手が右に回るなら、こちらは左へ逃げ、外側に膨らむしかない。
「衝撃に備えろ!」
Cheyenne の巨体がきしむ。船体が急激に傾き、床が壁になる。
ソナーには、ヴィクターIIIが作り出した巨大な水の渦が映し出される。それは音響上の「偽の潜水艦」のように振る舞い、魚雷のシーカーさえも騙す。
「衝突回避! 距離600ヤードで交差!」
冷や汗が流れる至近距離でのダンス。だが、これで終わりではなかった。
「ソナー、コンタクト報告!」ライアンが体勢を立て直しながら叫ぶ。
「ヴィクターは旋回を完了し、こちらを向いています! アクティブ打ちました! ……待ってください、新たな音源!」
ハルゼーの声が震える。
「ヴィクターの旋回ノイズが晴れた向こう側……方位0-1-0。非常に遠距離ですが、微弱な低周波。……タイフーンです!」
「見つけたか」
「奴ら、北へ向かっています! 海峡突破ルートではありません。氷の下……北極海の氷冠へ向かっています!」
1985年11月13日 03:30
タイフーン級戦略原潜 Tk-208 "ドミトリー・ドンスコイ"
「アメリカ艦はヴィクターに釘付けです。今のうちに第2レイヤー(水温躍層)の下へ」
コルサコフ艦長は、静かに、しかし確実に艦を操っていた。
ヴィクターのヴォルコフが派手に暴れ回る闘牛士なら、自分たちは観客席の影を歩く暗殺者だ。
「氷の下に入れば、西側の哨戒機も手が出せない」副長が頷く。「しかし艦長、氷下航行は音響環境が最悪です。氷のきしみ(Ice noises)で、敵の接近に気づくのが遅れます」
「だからこそいいのだ」
コルサコフは海図上の「白い領域」――北極点周辺の氷海を指した。
「氷の轟音は、我々の巨体のノイズも隠してくれる。それに、あそこなら『アレ』を使う準備ができる」
彼はポケットに入っている、政治将校から渡された封印命令の重みを感じていた。
「深度変更。200メートル。北極海盆へ」
【ドキュメンタリー:氷の下の戦場】
(ナレーター)
潜水艦にとって、氷の下(Under Ice)は完全なる別世界である。
頭上を数メートルの厚さの氷が覆い、緊急浮上は不可能。氷山の底部が鍾乳石のように海中へ突き出し、衝突すれば即座に沈没につながる。
そして何より、氷が擦れ合う音は「100の工場の騒音」に匹敵し、ソナー員の耳を破壊し、精神を摩耗させる。
ライアン艦長は、タイフーンを追って、この「氷の迷宮」へ踏み込む決断を迫られていた。




