第286章 第2章:第一収束帯(First Convergence Zone)
『深淵の交戦規定』
【軍事音響学解説:収束帯(CZ)の奇跡】
> (マサチューセッツ工科大学海洋音響研究所 所長 アラン・グリーンスパン博士の解説)
> 「海中の『音』は、空気中のように真っ直ぐには進まない。温度、塩分濃度、そして水圧によって曲げられるんだ。
> 北大西洋のような深海では、音波は水面近くの冷たい層から、深海の圧力の高い層へと下向きに屈折し、ある深度で反転して再び海面へ向かう。これを繰り返すことで、音はサインカーブを描きながら長距離を伝播する。
> その音が海面付近に再び集まるポイント、それが『収束帯』だ。通常、音源から約30〜35海里(約60km)ごとに現れる。
> つまり、潜水艦乗りにとってのCZとは、『近くの音は聞こえないが、60km先の音は手に取るように聞こえる』という魔法の領域なのだ」
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1985年11月13日 02:15(現地時間)
バレンツ海・ノルウェー海境界海域
USS Cheyenne (SSN-688級)
深度: 600フィート(約183m) 速度: 5ノット
「神の家の静けさだ」
ソナー員一等兵のデビッド・ミラーは、ヘッドフォンのイヤーパッドを耳に押し付けながら呟いた。
ソナー室は、赤色の低照度照明に包まれている。並んだCRTモニターの青白い光だけが、オペレーターたちの疲れた顔を照らしていた。
「私語は慎め、ミラー」
ソナー長のハルゼー兵曹長が、コーヒーマグを片手に背後から釘を刺す。「スペクトル解析に集中しろ。ロシアの鯨はデカいが、足音を忍ばせるのが上手くなっている」
USS Cheyenne は、バレンツ海から大西洋への出口にあたる海域で「アンブッシュ(待ち伏せ)」体勢に入っていた。
後方に長く伸びたTB-16曳航式アレイソナー(テイル)を展開し、自艦の出すノイズから遠く離れた場所で、海中のあらゆる音を拾い集めている。
モニター上の「ウォーターフォール(滝)」画面には、緑色のノイズの雨が上から下へと流れている。背景雑音。波の音、氷の軋み、遠くの商船のスクリュー音。その混沌の中から、人工的な規則性を持つ周波数を見つけ出すのが彼らの仕事だ。
「コーン(発令所)、ソナー」
ミラーの声が緊張で上擦った。「ナローバンド(狭帯域)に反応あり。方位0-3-5。第一収束帯(CZ1)と思われます」
発令所
「ソナー、こちら艦長。何が聞こえる?」
マーカス・ライアン中佐は、潜望鏡の支柱に寄りかかりながらマイクを取った。
「50ヘルツ帯に微弱なトナル(音線)。非常に低い周波数です。2軸推進……ブレードレート(羽根の回転数)から推測して、大型艦です。タイフーンの可能性大」
「よし」ライアンは海図台に目を落とす。「方位0-3-5、距離およそ33海里。奴らは予想通り、海峡の中央突破を狙っている」
副長のサリバン少佐が囁く。「艦長、通常ならタイフーンはもっと沿岸寄りを這うはずです。こんな堂々としたコースを取るのは……」
「囮か、あるいは自信の表れか」ライアンは眼鏡の位置を直した。「追跡コースに乗る。舵、右1-5度。速力、5ノット維持。静かに背後につくぞ」
しかしその時、スピーカーからソナー長ハルゼーの鋭い報告が飛び込んだ。
「艦長! 新たな接触! 方位0-3-0、タイフーンの左舷前方。トランジェント(過渡音)を確認!」
「トランジェントの種類は?」
「……ハッチ音ではありません。これは……高圧空気の放出音? いえ、もっと短い」
ソナー室の空気が凍りついたのが、インターホン越しにも伝わってきた。
「コーン、ソナー。接触感度急上昇! これはパッシブじゃない。アクティブです! 方位0-3-0からピン(探信音)が打たれました!」
【戦術分析:アクティブ・ソナーの脅威】
通常、潜水艦戦は「盲目の盗み聞き」である。自らは音を出さず、相手の音だけを聴くパッシブ・ソナーが基本だ。
自ら音波を発する「アクティブ・ソナー」の使用は、暗闇の中で懐中電灯を点けるに等しい。相手が見える代わりに、自分の位置は数倍の距離から暴露される。
戦時でない限り、潜水艦が別の潜水艦に向けてアクティブを打つことは極めて挑発的であり、事実上の「威嚇射撃」とみなされる。
ソナー室
キィィィィィン……
船体を直接叩くような、甲高い金属音がヘッドフォンを引き裂いた。ミラーは思わず耳を押さえる。
「中周波数ソナー! 距離推定15,000ヤード(約13km)。かなり近い!」ハルゼーが叫ぶ。「タイフーンじゃありません! 音紋照合……シングルスクリュー、7枚羽根。ヴィクターIII級です!」
「くそっ、護衛が先行していたのか!」
ウォーターフォール画面に、鮮明な光の筋が現れる。
CZ(収束帯)を利用して遠くのタイフーンを聞いていたつもりだったが、その手前、直接伝播範囲内の「死角」に、護衛の攻撃原潜が潜んでいたのだ。
「逆探知されました! 相手は完全にこちらを向いています!」
発令所
ライアン艦長の判断は冷徹かつ迅速だった。
「総員配置につけ! 音源へ艦首を向けろ(Point the bow)! 敵のアクティブ断面積を最小にする!」
艦内に警報ブザーが鳴り響く。
「あちらが懐中電灯を照らしたなら、こちらは石になるまでだ」
「敵艦、増速!」ソナーからの報告。「キャビテーション(気泡)ノイズ増大。速力25ノット以上! こちらに向かってきます!」
副長が青ざめる。「艦長、これは演習のレベルを超えています。公海上で米艦を追い回すつもりですか?」
「奴らは我々を『追い払いたい』んだ。タイフーンを安全に通すためにな」
ライアンは火器管制盤(WCS)の士官を見た。「チューブ(魚雷発射管)1番、2番、注水。ただし発射口扉は開けるな。音だけでいい」
ソ連海軍 攻撃型原潜 ヴィクターIII K-324
「アメリカの原潜を探知。方位1-8-0。距離12キロ」
ソナー員の報告に、ヴォルコフ艦長は獰猛な笑みを浮かべた。
「やはりいたか、ロサンゼルス級。コソ泥のように聞き耳を立ておって」
彼は潜望鏡のグリップを握りしめる。「アクティブ続行。奴らの鼓膜が破れるまで叩き続けろ」
「艦長、相手から注水音(Flooding noise)! 魚雷発射管です!」
「ハッタリだ」ヴォルコフは即答した。「今の国際情勢で先制攻撃はできん。だが、ビビらせて舵を切らせれば我々の勝ちだ。機関、最大戦速! 奴らの鼻先をかすめてやれ!」
ヴィクターIIIの原子炉が唸りを上げ、鋭い船体が水を切り裂いて加速する。
「スプリント・アンド・ドリフト(疾走と漂流)」戦術の「スプリント」だ。自艦のソナーが聞こえなくなるほどの轟音を立てて突進し、敵を恐慌状態に陥れる。
USS Cheyenne 発令所
「敵艦、距離8,000ヤードを突破! 衝突コースです!」
測的担当士官の声が震える。
3Dディスプレイ上の赤い光点が、自艦を示す青い光点に向かって一直線に伸びている。
「まだだ」ライアンはコンソールを睨む。「奴はブラフをかけている。ここで動けば、我々の完全な音響データ(シグネチャー)を取られる」
「距離5,000! 接触まであと2分!」
「艦長!」副長が叫ぶ。「回避行動を!」
ライアンの額に脂汗が浮かぶ。軍事的合理性と、生存本能のせめぎ合い。
もし相手が狂っていて、本当に体当たり(ラム)を狙っていたら? あるいは、魚雷発射の準備を隠すための突進だとしたら?
「……舵、一杯左」ライアンが静かに、しかし力強く命じた。「機関、全速(All Ahead Full)。キャビテーションなど気にするな。あの『狂犬』の横っ腹に回り込むぞ」
「アイ・サー! 左一杯、全速!」
USS Cheyenne の巨大なスクリューが海水を噛む。静寂は破られた。
数千トンの鋼鉄の塊同士が、視界ゼロの深海で、互いの音だけを頼りに数百メートルの距離ですれ違う「ドッグファイト」の幕が切って落とされた。
【ドキュメンタリー:当時のソナー記録】
(元ソナー員 デビッド・ミラーのインタビュー)
「あの時の音は一生忘れられないよ。ヴィクターのスクリュー音が、まるで貨物列車が頭上を通過していくみたいに近づいてきて……ドップラー効果で音が『ヒュゥゥゥン』と低くなった瞬間、心臓が止まるかと思った。
後で解析したら、両艦の距離はたったの400ヤード(約360m)だった。水中でのその距離は、高速道路で対向車とサイドミラーを擦り合わせるようなもんだ。
だが、その騒音の裏で、もっと恐ろしいことが起きていたんだ。ヴィクターとの追いかけっこに気を取られて、我々は『本命』の動きを見落としていた」




