第283章 氷の境界線
202X年 2月12日 05:15 オホーツク海南部 深度60メートル
戦いの熱は、嘘のように急速に冷めつつあった。
『らいげい』は深度を上げ、安定を取り戻していた。発令所の照明は、非常用の赤色から、巡航時の落ち着いた青色へと戻されている。
だが、乗員たちの表情には疲労の色が濃い。わずか数十分の交戦が、数日分の精神力を削り取っていた。
「機関、異常なし。バッテリー残量、84パーセント」
「パッシブソナー、感度回復。……ロシア艦、機関停止中(Dead in the water)。距離6,000ヤード」
工藤艦長は、海図台で腕を組んでいた。
生き残った。
だが、それだけでは不十分だ。この事態をどう収拾するか。
魚雷を撃ち合った事実は消えない。だが、双方が沈んでいない以上、これはまだ「戦闘」ではなく「事故」や「誤認」として処理できる余地がある。
その時、通信室から暗号員が駆け込んできた。
「市ヶ谷(艦隊司令部)より、フラッシュ(最優先電報)! 『直ちに戦闘行動を停止し、現場海域を離脱せよ』。……ロシア側とのホットラインが通じたようです」
工藤は大きく息を吐いた。
「政治決着か。現場の命拾いだな」
彼は副長に向き直った。
「浮上する」
「浮上、ですか? まだロシア艦の射程内ですが」
「こちらの意思を示す必要がある。それに、切断されたTASS(曳航ソナー)のケーブル処理と、船体外壁の点検が必要だ。氷の隙間を探せ」
ロシア海軍 駆逐艦『マルシャル・ヴァシレフスキー』 艦橋
吹雪は止み、雲の切れ間から黎明の光が差し込んでいた。
海面には、砕けた流氷が白い蓮の葉のように漂っている。
「モスクワより入電。『演習終了』。全艦、ウラジオストクへ帰投せよ、とのことです」
通信士官の報告に、CICから艦橋へ上がっていたヴォルコフ艦長は頷いた。
「痛み分けか。悪くない結末だ」
彼は双眼鏡を手に取り、右舷後方の海面を見つめた。
そこには、まだ波紋が残っていた。自艦のPaket魚雷がデコイを破壊した跡だ。
そして、その向こう側。
「……出たぞ」
見張り員が声を上げるまでもなく、ヴォルコフはその黒い影を捉えていた。
波を割り、黒塗りの巨体がぬらりと海面に姿を現した。
日本の最新鋭潜水艦『らいげい』。
その船体は滑らかで、司令塔は流体力学的に洗練されている。船体全体が吸音タイルに覆われ、濡れた黒曜石のように光っていた。
「美しいな」
ヴォルコフは素直に感嘆した。
かつての無骨な鉄の塊とは違う。あれは海と一体化するために磨ぎ澄まされた、現代の忍者刀だ。
そして彼は知っている。あの艦の艦長は、自分の放った魚雷を、魚雷で撃ち落とすという神業を見せた男だ。
「砲を向けるなよ」
ヴォルコフは釘を刺した。
「彼らは挨拶に来ただけだ」
海上自衛隊 潜水艦『らいげい』 艦上
ハッチが開き、工藤は寒風吹き荒れるブリッジへと身を乗り出した。
外気温マイナス18度。防寒服を着ていても、冷気が刃物のように突き刺さる。
「被害状況は?」
「セイル後部の整流板に亀裂。TASSケーブルは根元から切断されています。航行に支障はありません」
見張り員と共に上がってきた応急長が報告する。
「高い授業料だったな」
工藤は双眼鏡を構えた。
視線の先には、満身創痍のロシア駆逐艦が浮かんでいる。
向こうも相当揺さぶられたはずだ。だが、砲塔は正中線を向き、敵意がないことを示している。
「艦長、あちらのブリッジに人影が見えます」
「ああ。向こうの古狸(艦長)だろう」
距離は離れている。言葉は届かない。
だが、海で生きる男同士の言語がある。
「発令所、アクティブ・ソナー用意」
工藤はマイクで命じた。
「えっ、撃つのですか?」
「違う。パワーを落とせ。特定のパターンを打つ」
氷の境界線
ピン…… ピン…… ピン……
海中を通じて、そして海上の空気すら震わせて、3回の短いソナー音が響いた。
攻撃的な高周波ではない。低く、落ち着いた音色。
『ヴァシレフスキー』の艦橋で、ヴォルコフはその音を足裏で感じた。
モールス信号ではない。だが、その意図は明白だった。
『Good Game(いい勝負だった)』、あるいは『Farewell』。
ヴォルコフは帽子を取り、黒い潜水艦に向けて掲げた。
「道を開けろ。彼らが通る」
『らいげい』はゆっくりと回頭し、南へと進路を取った。
朝日が、その濡れた船体を黄金色に染める。
後部甲板では、切断されたケーブルの回収作業を手早く終えたクルーたちが艦内へ戻っていく。
「潜航用意」
工藤は最後に一瞥だけロシア艦にくれ、ハッチを閉めた。
「ベント弁、開け」
プシューーーッ……
海水を吐き出す音ではなく、取り込む音が響き、黒い巨体は再び波の下へと沈んでいった。
後には、静かな波紋だけが残された。
エピローグ:見えない戦争
202X年 2月13日 夜のニュース
『……防衛省は本日、オホーツク海で実施されていたロシア海軍の演習に対し、警戒監視活動を行っていたことを明らかにしました。
一部報道では、至近距離での接触があったとの情報もありますが、政府関係者は「国際法に則った通常の活動であり、危険な事態は発生していない」とコメントしています。
なお、ロシア側も本日正午をもって演習海域を封鎖解除し、艦隊は帰路についた模様です……』
テレビ画面の向こうで、キャスターが淡々と原稿を読み上げている。
横須賀の居酒屋で、非番の自衛官たちがビールジョッキを傾けていた。彼らはそのニュースを見ても、箸を止めることはない。
「へえ、オホーツクか。寒そうだな」
「『らいげい』だろ? あそこはリチウムだから暖房効いてるんじゃないか?」
「違いない」
彼らは笑い合う。
だが、誰も本当のことは知らない。
数百メートルの深海で、ミサイル防衛システム(MD)よりも高度な迎撃戦が行われたことも。
一人の指揮官の決断が、極東の軍事バランス崩壊を瀬戸際で食い止めたことも。
それは「グレーゾーン」と呼ばれる、戦争と平和の狭間の出来事。
記録には残らない。記憶と、ソナーの記録媒体の中にしか存在しない真実。
深海は、今日も沈黙を守っている。
(完)




