第262章 「沈没後:救助・拒絶・構造的非人道性」
◆第7章 第8節(7-8)
「沈没後:救助不能の海」
――1941年5月27日 10:11。
戦艦ビスマルクが海に完全に消えた直後の海面。
静寂。
しかしそれは、
“死が静かだから”ではない。
死にかけた男たちに、
叫ぶ力が残っていなかったからだ。
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●【10:12】海面:油膜と漂流者
海は黒かった。
重油が広がり、
水面は光を吸い込むように鈍く沈み、
ところどころに炎が漂っていた。
生き残った者たちは
重油と海水を吐きながら
ただ浮かんでいた。
救命胴衣はほとんどない。
何百もの黒い頭が
油膜の中でゆっくり上下している。
ミューラー:
(耳が痛い……
水が入りすぎて、
音が……薄い……)
遠くで誰かが叫んでいる。
だが声はひどく弱い。
「……ヒルフェ……
たすけ……て……」
油を飲んで声帯を焼いた者には
言葉すら成立しない。
「……う……ぁ……
……かあさん……」
波音、油の泡が弾ける音、
そして断片的な呻き声。
もはや戦場ではなかった。
ただの“海難事故の海”。
しかし、誰も救助に入らない。
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●【10:13】英戦艦ロドニー:
「救助は…できない」
ロドニー艦橋では、
異様な沈黙があった。
観測員:
「……沈んだ艦の周りに
多数の人影……
生存者です……!」
若い水兵は思わず口を開く。
「救助艇を……!」
だが砲術長は言葉を遮った。
「だめだ。」
「なぜです、サー!?
もう戦闘は終わったはず――」
「終わっていない。
Uボートの危険がある。」
北大西洋のこの海域は
Uボート戦の最前線だ。
沈没した大型艦の周囲に救助艇を出す――
それは
“味方の死体を増やしに行く行為”
とすら軍では理解されていた。
艦長ダルリンは
感情の揺らぎを押し殺した声で言う。
「味方の救助が優先だ。
敵の救助は……
Uボートがいないことが確実になってからだ。」
それが“規則”だった。
そしてすべての艦長が
その規則の理由を知っていた。
魚雷一本で艦が沈む。
救助中の艦は最も脆い。
しかし、
艦橋の誰も納得していなかった。
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●【10:14】海面:
「誰も助けに来ないという事実」
ミューラーは
沈みゆく意識の中で
ロドニーの高い船体を見ていた。
(見えている……
イギリスの船……
助けに……来てくれる……のか……?)
だが、艦は動かない。
ボートも降りてこない。
(……なぜ……?)
彼は想像すらできなかった。
自分たちが “救助されない側”だということを。
戦争とは、
沈没した瞬間に人間性まで剥奪されるものだった。
隣で浮かんでいた若い整備兵は
油を飲み込み過ぎて
声も出ない。
ただ目で問いかけるように
ロドニーを見つめていた。
その目は、
「なぜ?」と叫んでいた。
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●【10:16】英巡洋艦ドーセットシャー:
「救助命令」の葛藤
ドーセットシャーはロドニーの後方で停止し、
煙の向こうから
生存者の数を観測していた。
艦長マーティン:
「救助艇の準備を開始せよ。
ただし、周囲警戒を強化しろ。
Uボートが潜んでいる可能性は高い。」
副長:
「しかしサー、
ビスマルクの沈没地点は
Uボート出没海域の中心です。
潜航状態なら探知は――」
「承知している!」
艦長は
激しく言葉を封じた。
「だが、
このまま見殺しにするのか……?」
副長は言葉を失った。
艦長は続ける。
「フッドの仇だ。
それはわかる。
だが海に漂っているのは兵士だ。
命令なくして沈没に抗いようもない者たちだ。」
副長:
「しかし……
魚雷を受ければ我々も沈みます。」
「……わかっている。」
二人の間に
重すぎる沈黙が落ちた。
これは
“善悪”でも“感情”でもない。
構造的に救助すべきでない状況
だった。
救助を行う――
それは部下の命を賭ける。
救助を行わない――
それは敵兵を海に捨て置く。
どちらにも正義はない。
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●【10:17】海面:
「最後の声」
ミューラーは、
声の代わりに呼吸だけを続けていた。
肺が痛い。
体の芯が冷えていく。
遠くで
誰かが歌っていた。
弱々しい声だったが、
よく知っている歌だった。
「……ヴェステルンリード……
我らの……故郷は遠く……」
ドイツ兵の間で
出撃前に歌われた民謡だ。
その声は
波に揺られ、
途切れ、
消えた。
ミューラー:
(……もう……だめ……)
その瞬間――
金属の甲高い音がした。
ガンッ!
振り向くと、
ドーセットシャーが
救命ネットを海に降ろしていた。
ミューラーの目に
最後の光が戻る。
(来た……!
助けに……!)
しかし海は残酷だ。
油にまみれた体では
10mも泳げなかった。
彼は
救命ネットまでの距離を
“永遠の距離”として理解した。
そのまま、
意識が暗く沈んだ。
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●【10:20】英艦側:
「救助中止」
救助を始めて
わずか5分後。
ソナー兵:
「音響反応!
距離4000――接近中!」
艦橋が凍りつく。
艦長マーティン:
「Uボートか……!」
副長:
「救助続行は危険です!」
艦長は歯を食いしばった。
「……撤収。
全救助員を引き上げろ。
主機前進!
全速で離脱!」
海にいる兵士たちが
その言葉を聞くことはない。
救命ネットが
ゆっくりと引き上げられ、
数十名を救い上げたところで
作業は打ち切られた。
海には
まだ数百人の兵がいた。
しかし、
艦は徐々に離れていく。
生存者の手が
最後の祈りのように上に伸びる。
だが、その手は届かない。
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●【10:25】
「海だけが残る」
波がすべてを覆った。
油膜、残骸、
名も分からない兵士の声。
海は、
まるで“死者の記憶”を洗い流すように
静かに揺れていた。
誰も“沈没後の海”を
戦史に詳しく書くことはない。
だが兵士たちは
確かにそこで生き、
そこで死んだ。
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●エピローグ
「戦争とは“構造的非人道”である」
ロドニー艦長ダルリンは
帽子を胸に当てて呟いた。
「……これが戦争だ。
どちらの艦も沈み、
どちらの兵も死に、
どちらの司令官も誇りを持ち、
だが……
誰も救われない。」
副官:
「サー……
我々は正しいことを……?」
「正義など、
海には存在せん。」
風が吹いた。
海が揺れた。
そして海は
記憶を持たないまま
ただ、北大西洋として
続いていった。
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