第261章 「沈没:戦艦が海に消える“3分間”」
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◆第7章 第7節(7-7)
――1941年5月27日 10:05。
北大西洋。
濁り切った風。波高4m。
海の表面には油膜が漂い、
煙と鉄の匂いが混ざっていた。
その中央で、
戦艦ビスマルクは沈み始めていた。
沈没開始から“完全に消える”まで――
約3分間。
だが、その3分は、
艦に残された千余名の命にとって
永遠に等しい時間だった。
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●【10:05:30】ビスマルク艦橋
「沈む艦の“傾斜感覚”」
角度は20度を超えた。
右舷側に傾いたまま、
ゆっくりと、しかし確実に
水面が艦橋の高さへ迫ってくる。
艦内の構造物が
“海の引力”に引っ張られるように軋む。
ギ……ギギギ……ッ
副官は手すりにしがみつきながら叫ぶ。
「提督! 艦が――
船体が右へ……!」
リュッチェンス提督は、
もはや乱れない声で言った。
「ここまでだ。
諸君……誇りを持って、
艦と共に沈む。」
副官は唇を震わせた。
「……了解……いたしました。」
この瞬間、
艦橋の全員が“死”を理解した。
逃げ道はない。
火も爆風ももう関係ない。
海そのものが死を告げにきていた。
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●【10:06】後部甲板:
「海が迫る速度」
後部甲板は、
傾斜に伴って海面へ滑り込む斜面となっていた。
ミューラー上等兵は
仲間の腕を抱えながら
わずかに開いた外部通路から抜け出した。
海風が顔に叩きつけられ、
その向こうに――
恐ろしいほど近い海面。
ミューラー:
「……もう……
甲板が海に飲まれる……!」
事実、艦尾は
“波の高さと同じ位置”まで沈んでいた。
海面が、
まるで甲板へ爪を立てて這い上がるように
迫ってくる。
その速度は速くない――
しかし、止まらない。
人間の足で逃げきれる速度ではない。
船そのものが“落ちていく”速度だった。
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●【10:06:30】ロドニー艦橋:
「沈む巨艦を見つめる者たち」
観測員が息を呑んで呟いた。
「……沈む……
本当に沈むのか……
あの怪物が……」
艦長ダルリンは
双眼鏡越しにその光景を見ていた。
「艦尾が完全に水没した。
舵の破孔からの浸水が
全体に回ったな。」
マクレーン砲術長:
「艦が……裂けるように沈んでいきます。」
ダルリン:
「……止めを刺す必要は、もうない。」
誰も喜びはしない。
フッドの仇討ちであるはずなのに、
艦橋には重苦しい沈黙だけがあった。
「沈む艦に礼を失するな。
射撃はやめておけ。」
ロドニーの大砲は
ただ静かに巨艦の終焉を見届けた。
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●【10:07】ビスマルク機関室:
「水の重さが“壁”を押し潰す」
機関室の温度は既に40度を超え、
蒸気と油が混ざった空気は
吸い込むだけで肺を焼くようだった。
突然、
隔壁の奥から“崩壊音”が響く。
ガガガガガ――ン!!!
海水が
巨大な鉄の扉を破壊し、
濁流のように流れ込んできた。
機関兵ホフマン:
「上へ逃げろ!!
急げ!!」
だが濁流は速かった。
人間が“足で逃げられる速度”ではない。
気づけば足元は水で満たされ、
次の瞬間には腰、胸と押し上げられる。
水は冷たさではなく、
圧倒的な“質量”で襲ってくる。
海水が肺を押し潰す。
油膜が口と鼻に入り込む。
ホフマン(内心):
(これは……
溺れるというより……
押しつぶされる“圧殺”だ……)
声を出す暇もなかった。
海は、容赦なく飲み込んでいった。
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●【10:07:30】後部甲板と上部構造:
「海面が甲板を“駆け上がる”」
艦尾は完全に水没し、
波が甲板上を滑り込むように走っていた。
ミューラー:
「来るぞ!!
波が……波が乗り上げてくる!!」
乗員たちは
次々に甲板から滑り落ち、
海へ飲まれていった。
ほとんどの者は
救命胴衣も持っていない。
炎と煙と油の匂いがする海は、
泳ぐという行為すら許さなかった。
艦の傾斜はさらに増し――
角度30度。
手すりに掴まっていた者が
次々に滑っていく。
鉄の壁を叩きながら落ちる音。
海に沈む叫び声。
それでも艦は沈み続けた。
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●【10:08】ビスマルク艦橋:
「海との接触」
海面が――
艦橋のガラスを叩いた。
ゴウッ……!
副官:
「提督……海が……!!」
リュッチェンス提督は
燃え上がる金属と黒煙に包まれながら、
静かに海面を見返した。
その表情に恐怖はなかった。
「……これでいい。」
海が艦橋の縁を越え、
内部へ流れ込む。
副官は立ったまま海に呑まれた。
最後の瞬間、彼は
提督の背を見ていた。
巨艦の司令官としての誇り。
敗れても揺るがない静かな眼。
海がその姿を
完全に覆い隠した。
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●【10:08:30】海中:
「巨大艦が沈む時の“渦”」
ビスマルクの全長は250m近い。
この巨体が沈み込むとき、
海中には“三つの現象”が生じる。
①負圧吸い込み(ダウンドラフト)
②回転渦
③海面落下時の衝撃波
沈降速度が増した瞬間、
海面が“吸い込まれる”ように落ちた。
海兵たちは
その吸引で海の底へ引っ張られた。
助かりたければ――
沈降角から水平距離50m以上
泳いで離れなければならない。
だが油膜と残骸の海では
それは不可能だった。
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●【10:09】ロドニー艦橋:
「巨艦消失の瞬間」
観測員(震える声):
「……艦首が……消える……」
ビスマルクは
海面にわずかに艦首だけを残し、
最後の息をついた。
そして――
沈んだ。
海が盛り上がり、
瞬間的に白い泡と油が噴き上がる。
その後、
巨大な“穴”のように海面が沈む。
波が押し寄せ、
その穴を埋めた。
全てが海に吸い込まれ、
何も残らなかった。
艦長ダルリンは
静かに帽子を脱いだ。
「……終わった。」
誰も声を発しなかった。
海はすべてを飲み込み、
何事もなかったように
再び波を打ち始めた。
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●【10:10】生存者たち
「海に浮かぶ静寂」
火に焼かれ、爆風に吹き飛ばされ、
油と煙にまみれた乗員たちが
わずかに海面に浮かんでいた。
叫び声はない。
泣き声もない。
聞こえるのは、
波と風だけ。
ミューラー(心の中):
(生きている……?
いや……
死にかけているだけだ……
でも……
海が……冷たい……
まだ……生きてる……)
しかし油と重油が絡んだ海面では
泳ぐだけで力を奪われていく。
多くは
海に抱かれるように沈んでいった。
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●【10:11】波と海と空
「海が傷を閉じる」
巨大な戦艦が沈んだにもかかわらず、
海はすぐに“何もなかった表情”に戻り始めた。
油膜が流れ、
破片が浮かび、
わずかな人影が漂う。
だが――
海はただ静かに揺れているだけだった。
この海は、
ビスマルクを沈めたことを
覚えてすらいない。
海には記憶がない。
ただ受け入れ、
ただ沈め、
ただ閉じる。
戦艦ビスマルクの三分間の死は、
海のまばたきにも満たない。
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