第241章 「プリンツ・オイゲン艦橋:艦長ブリンクマンの“不安な計算”」
◆第6章・第5節(6-5)
――霧の白壁の中、
ビスマルクの後方2,000メートル。
重巡プリンツ・オイゲンの艦橋では、
艦長ヘルムート・ブリンクマン大佐が
双眼鏡を下ろした。
もちろん、何も見えない。
見えるはずがない。
霧は完全に海面へ貼りつき、
先行する巨大戦艦の影すら飲み込んでいた。
副長エッカーマン少佐が言った。
「距離は保持しています。
ただ……視界ゼロでは“距離”も感覚です。」
航海長:
「水音の反射、スクリューの低周波、
それらの微細変化から“推定距離”を割り出しているに過ぎません。」
ブリンクマンは静かに答えた。
「……ビスマルクを見失うわけにはいかん。
我々は随伴艦だ。
単独になれば、即座に敵巡洋艦の餌だ。」
言葉通りだった。
プリンツ・オイゲンの装甲・火力は優れているが、
戦艦同士の殴り合いに巻き込まれればひとたまりもない。
自らの“立ち位置”を理解しているだけに、
ブリンクマンは内心焦りを抱えていた。
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●“音の海図”
霧の中、彼らの最大の情報源は“音”だった。
特にビスマルクのスクリュー音は特徴的で、
タービン調整の癖が周波数に現れる。
音響測定士シュライバー曹長は
高感度ヘッドホンを外し、報告した。
「……艦長、ビスマルクのスクリュー音が
わずかに上がっています。
速度を増している可能性があります。」
副長:
「燃料漏れを抱えながら速度を上げる……
焦っているのか、
それとも“機会を掴んだ”のか。」
航海長は海図に鉛筆を走らせ、
霧中の誤差を含めた“揺らぎ帯”を示した。
「もしビスマルクが速度を上げているなら、
敵が完全に見失ったと判断した可能性があります。」
艦橋の空気が変わった。
それは希望のようでいて、
同時に不安でもあった。
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●ブリンクマンの“軍人の直感”
ブリンクマンは、
霧の向こうにいるはずの巨大戦艦を思い浮かべた。
(リンデマンは冒険をしない男だ。
彼が速度を上げたなら――
必ず何か根拠がある。)
だが、もう一つ
こっそり胸に浮かんだ可能性があった。
(あるいは……
ビスマルクの内部で限界が近づいているのか?)
燃料タンク損傷、機関振動、
揺動の不規則化――
それらの「不安の匂い」は
随伴艦にまで微かに伝わってきていた。
霧に包まれた海は静かだったが、
ブリンクマンの胸の中には
二つの矛盾した予感が渦巻いていた。
“逃げ切れる”予感と、
“もうすぐ破局が来る”予感。
そのどちらが正しいかを
示す手がかりは――
霧が晴れるまで、誰にも掴めなかった。
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