第179章 第2章《訓練海域・北海》 5/5
【20:荒天訓練 ― “巨艦は海に従う”】
北海の天候は突然豹変した。
昼前までは穏やかな曇天だった空が、
午後には鉛色の乱層雲に覆われ、
風速は一気に20メートルを超えた。
艦橋のガラスに
激しく海水が叩きつけられる。
航海長フェッツナー:
「艦長、前方の波高、最大で8メートルを超えます。」
リンデマン艦長:
「よし。そのまま“逆風を切れ”。
この艦がどこまで海に逆らえるか――確かめる。」
ビスマルクは荒れ狂う海に突っ込み、
甲板は巨大な波に呑まれ、
主砲塔の上にまで水煙が舞った。
だが驚くべきことに、
巨艦の針路はまったくぶれなかった。
ただし、艦内は別だ。
階段を降りようとした兵士が
突然の横揺れで壁に叩きつけられ、
整備班の工具箱は床に散乱し、
厨房では鍋が吹っ飛び、
食器庫は大破した。
それでも艦は進む。
新兵アーベントは
手すりにしがみつきながら叫んだ。
「こ……これが戦艦の本気かよっ!」
だが隣で古参のブルックナー兵曹が
にやりと笑った。
「違うぞ。
“海が本気を出すとこうなる”んだ。」
その言葉の意味は
アーベントが北大西洋で沈みゆく日の
最後の瞬間まで理解することになる。
【21:高速旋回訓練 ― 巨艦の“限界性能”】
荒天の中、
次に行われたのは“急速旋回”だった。
全長250mを超える巨艦が
海上でどれだけ素早く旋回できるか――
これは訓練の中でも最も危険な科目だ。
操舵兵:
「舵角30度! 旋回開始!」
艦が巨大な円を描き始める。
船体は悲鳴を上げるような金属音を響かせ、
艦内は急激な傾斜に包まれた。
新兵アーベントは身体を投げ出されかけ、
必死に計器台の脚をつかんだ。
操舵兵が叫ぶ:
「艦長、これ以上は艦体応力が危険です!」
リンデマン:
「いい。限界の“手前”を知ることが大事だ。」
その一言に、
航海科の士官たちは息を呑んだ。
戦艦を限界まで追い込むことは
壊す危険を伴う。
だが――
壊れる“手前”を知らなくては、
戦場で壊れる。
艦は大きく傾ぎ、
波が甲板に襲いかかり、
舵角の振動は手が痺れるほどだった。
だが――
旋回は成功した。
「……化け物みたいな船だな。」
と、整備兵ヴァルターが呟くと、
ディートマールが笑った。
「化け物を乗りこなすには、
乗ってる奴らも化け物じゃないとな。」
【22:夜の艦橋 ― “静寂の戦場”】
荒天訓練の後、
夜の艦橋は静まり返っていた。
外は漆黒の海。
遠くに点滅する灯火は僚艦プリンツ・オイゲン。
航海長フェッツナーが
夜間海図を読みながら言った。
「艦長、これほどの荒天下で
この速度を維持できる船は他にないでしょう。」
リンデマンは頷き、
暗い海を見ながら静かに言った。
「この艦は強い。
だが……強さは“過信”を呼ぶ。」
その声には
訓練成功の誇りと同時に
手綱を締め直す警戒が同居していた。
「戦艦の敵は“敵艦”だけではない。
海と、天候と、運命と……そして、人だ。」
艦橋の士官たちは
その言葉を重く受け止めた。
ビスマルクは強大。
だが――
強大であるがゆえに、
“失敗すれば歴史に名を残すほどの大惨事になる”。
この艦長の言葉は、
のちの“北大西洋での孤立”を予見するかのようだった。
【23:最後の訓練 ― “巨艦の呼吸を合わせる”】
出港から数週間、
全ての訓練項目を終え、
最後に行うべきはただ一つ。
“艦全体の呼吸を揃える”こと。
士官だけでも数百、
兵を含めれば二千を超える集団が
“同じリズムで動く”。
これこそ戦艦運用の核心だった。
■砲術班
砲塔旋回 → 仰角調整 → 装填 → 偏差計算
これらを20秒単位で同期。
■機関科
蒸気圧維持 → 出力調整 → ギア比固定
±1%以内で揃える。
■通信科
暗号化 → 送信 → 受信 → 解読
全工程を40秒以内で循環。
■ダメコン班
応急処置 → 浸水停止 → 排水 → 補強
3分以内で完結。
この“巨大な同期運動”が
世界最高級の戦艦の本当の武器であり、
その統一が完成した瞬間――
艦内アナウンス:
「訓練工程、全項目――完遂。」
艦内は静かな歓声に包まれた。
リンデマンは艦橋で
静かに手袋を外し、呟いた。
「……ようやく“戦える艦”になった。」
【24:北海夕景 ― 巨艦が“戦場へ”向かい始める】
訓練最終日、
北海の空は雲間から夕日が差し込み、
灰色の海が金色に染まった。
甲板に出た新兵アーベントは
思わず息を呑む。
「……きれいだな。
戦艦の上で見る夕日って、
こんなに静かなんだ……」
隣にいたブルックナー兵曹が
静かに答えた。
「覚えておけ。
いま見ている世界は、
お前が“これから失う”世界でもある。」
その言葉は、
優しさであり、
残酷な予言でもあった。
やがてアーベントは
この夕景を“二度と思い出せないほどの地獄”で
失うことになる。
【25:リンデマン艦長の「訓示」 ― 次章への導火線】
訓練終了の夜、
リンデマン艦長は全乗員に向けて
短い訓示を行った。
艦内放送が鳴る。
「ビスマルク乗員諸君。
諸君の努力により、
我々は北海での全訓練項目を完遂した。」
「この艦には力がある。
そして――我々にも力がある。」
「だが、これから始まる戦いは
“訓練とは違う”。
戦争は、判断と偶然と死でできている。」
少し間を置き、
艦長は静かに言った。
「私は諸君を信じる。
この艦を信じる。
だが――“過信しない”。
それが、我々が生き残る唯一の方法だ。」
この言葉が
乗員たちの“北大西洋での行動”を形作ることになる。
そして訓示の最後、
艦長はこう締めた。
「これより――“作戦行動”に移る。」
艦内の空気が変わった。
訓練の緊張から、
“実戦前夜”の静かな圧力へ。
ビスマルクはここから
**ライン演習作戦(Operation Rheinübung)**へ向かう。
フッドとの出会いが、
そのわずか数日後に待っている――。




