第57章 第4分科会 第2回 5日目
第4章:共存と絶滅のパラドックス—ネアンデルタール人に見る「自由な隘路」
司会者: 第3章で、ホモ・エレクトゥスは火の使用という文化的コストによって巨大脳の非効率性を相殺し、世界へ拡散しました。この拡散の過程で、特にヨーロッパと西アジアで進化したのが、この章のテーマであるホモ・ネアンデルターレンシス(Homo\ neanderthalensis)です。サエキ氏、彼らはホモ・サピエンスと数万年にわたり共存し、私たちよりも大きな脳を持っていたにもかかわらず、なぜ「最適化の拒否」という文脈で語られるのでしょうか?
サエキ・リョウ: ネアンデルタール人の進化は、「特定の環境への極端なコミットメント」という、究極の自由な隘路でした。彼らは、祖先であるホモ・ハイデルベルゲンシスから分岐した後、氷河期という極端に寒冷な環境に適応するために、頑丈でがっしりした体躯、大きな鼻腔、そして現生人類よりも大きな脳容量(平均1400cc~1600cc)を獲得しました。生化学的には、この過剰な体躯と巨大な脳は、基礎代謝量が非常に高いという二重の非効率性を意味します。彼らは、燃費の悪いエンジンを搭載し、常に大量のエネルギー(カロリー)を狩猟で賄わなければならない、コスト最適化から最も遠い設計だったのです。
マルケス博士: まさにその通りです。ネアンデルタール人は、AIの論理が推奨するはずの汎用性を拒否し、「寒冷地での超特化」という自由な自己決定を行使しました。彼らは高度なムスティエ型石器を使い、効率的な狩猟集団を形成しましたが、その行動は驚くほど局所的でした。彼らの行動圏は狭く、使用する資源や生活様式も限定的です。これは、彼らの高コスト体質が、広範囲な探索やリスクの分散を許さなかったことを示しています。彼らは、環境への非効率な特化ゆえに、「行動の自由」を失ったのです。
4.2. 脳容量のパラドックス:認知の非効率性
司会者: 彼らの脳容量は私たちよりも大きいという事実は、彼らの認知能力が私たちより優れていた可能性を示唆しますが、マルケス博士はこれをどのように解釈しますか?
マルケス博士: 脳容量の大きさは、必ずしも**「賢さ」や「汎用的な知性」の最適化を意味しません。ネアンデルタール人の脳は、視覚野や運動野といった感覚・運動を司る後頭部が大きく、抽象思考や社会性を司る前頭葉の割合が現生人類よりも小さい傾向にありました。これは、彼らが巨大な体躯と、北方の暗い環境での生存という直接的かつ感覚的な情報処理に、脳の資源を過剰に割り当てたという非効率な特化**を示唆します。
サエキ・リョウ: ホモ・サピエンスが**「非効率な抽象思考」—例えば、未来を予測する、神話を作る、遠隔地の資源を計画的に利用するなど—に脳のエネルギーを割いたのに対し、ネアンデルタール人は「生存のための超高性能センサー」にエネルギーを割きました。ネアンデルタール人は、極限環境での生存という極めて限定的な課題に対しては最適化されたかもしれませんが、その代償として、予測不能な環境変化に対応するための柔軟性と文化的革新の自由を失いました。これは、「特定の課題への過剰な特化」**が、進化の多様な選択肢を閉ざすという、最適化の罠にはまった例です。
4.3. 絶滅という自由な隘路の終焉
司会者: 約4万年前、ヨーロッパへ到達したホモ・サピエンスとの共存を経て、ネアンデルタール人は絶滅します。彼らが絶滅した理由は、まさにその「非効率な特化」にあったのでしょうか?
マルケス博士: 彼らの絶滅は、単なる淘汰ではなく、「自由な隘路」の終焉です。約4万8千年前の急激な寒冷化と、その後のホモ・サピエンスの進出という二重の環境圧に対し、ネアンデルタール人は燃費の悪い高コスト体質ゆえに、行動範囲を広げられず、獲物も少なくなりました。彼らは、厳しい環境で生き残るという自己決定権を行使しましたが、その過剰な形態は、環境変化に対する柔軟な自己決定を妨げたのです。
サエキ・リョウ: 一方、ホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人よりもきゃしゃな体躯と非効率な抽象思考を持つ**「低燃費な柔軟体質」でした。私たちは骨器で針を作り、防寒着を縫うという文化的非効率性**(文化的な労働)によって寒さを克服しました。ネアンデルタール人の絶滅は、形態的な特化という最適化の拒否が、最終的に生存のための自由そのものを奪うという、進化の冷酷な真実を我々に突きつけています。しかし、その過程で私たちホモ・サピエンスと混血したという事実は、彼らの遺伝子が**「影の遺伝子」として、今なお私たちのゲノムの多様性と非合理性**に貢献していることを示しています。
司会者: ネアンデルタール人の歴史は、最適化を拒否した特化が、いかに生存の自由を奪うかというパラドックスを提示しました。次章では、この全ての試行錯誤を乗り越え、究極の非効率な選択である**「抽象的思考」**を武器に生き残ったホモ・サピエンスの進化を検証し、本分科会の結論とします。




