第29章 第4分科会 第2回目 3日目 ②
第2章:大気の散逸と気候の凍結—火星の熱力学的死
(登壇者:ドクター・ルイス・マルケス)
(マルケス博士が演壇に戻り、静止していたスクリーンに、太陽風が火星大気を剥ぎ取り、宇宙空間へ青い粒子が流出していく、ドラマチックなシミュレーション映像が映し出されます。観測データに基づく、火星の**熱力学的な「死」**の瞬間を象徴する映像です。)
「サエキ博士は、火星が、その地質学的要因—磁場の早期消失とプレートテクトニクスの停止—によって、生命維持の鍵である液体の水を急速に失ったことを示しました。しかし、水の喪失の悲劇は、単なる水文学的な乾燥に留まりません。それは、火星を熱力学的な死へと導いた、大気の非効率的な漏出によって決定づけられたのです。」
「本章では、火星の物理学史におけるこの第二の断絶—大気散逸と気候の急変—が、生命にとっての究極の非最適化であったことを検証します。」
III.1. 大気散逸のメカニズム:太陽風による熱力学的な「漏出」
「地球と火星の最大のコントラストは、大気維持の冗長性です。地球は、動的な磁場によって太陽風を偏向させ、大気を守っています。しかし、第1章で触れたように、火星は早期に磁場を失いました。その結果、火星大気は**『保護シールド』**を失い、太陽風に完全に晒されることになりました。」
「このとき発生した物理的なプロセスが、スパッタリングです。太陽から放出される高エネルギーの粒子(太陽風)が、火星大気中の分子(CO₂、酸素など)に衝突し、その運動エネルギーを与えて大気分子を宇宙空間へと直接吹き飛ばしたのです。我々のMAVEN(Mars Atmosphere and Volatile Evolution)ミッションなどのデータは、現在もこの**熱力学的な「漏出」**が続いていることを示しています。」
「AIの最適化モデルは、密閉された系での効率を計算します。しかし、火星のケースでは、大気という生命を覆う最も重要なシールドが、外部からのエネルギー(太陽風)によって絶えず非効率的に破壊され、散逸していくという、**『開かれた系における熱力学的な損失』**に直面しました。」
「この大気の非効率な散逸は、火星の生命(仮説)に、**『進化的な時間』**を許しませんでした。適応は漸進的に行われるべきですが、火星では、生命が進化して新しい代謝経路を獲得するよりも速く、環境条件が悪化し続けたのです。」
III.2. 火星のCO₂凍結:温室効果の崩壊という究極の非最適化
「大気の散逸がもたらした第二の結果が、気候の劇的な凍結です。初期の火星を暖めていた主要な温室効果ガスは**二酸化炭素(CO₂)**でした。大気の希薄化により、CO₂の濃度が臨界点を下回ると、温室効果が崩壊しました。」
「火星の気候は、温暖化から凍結へと急速に逆行しました。さらに非合理的なのは、残ったCO₂が、地球のように循環することなく、極冠や地下のパーマフロストとして固体化し、凍結したことです。これは、『温室効果ガス』という、本来は温暖化を促進するはずの分子が、固体化することで逆に気候を冷却化させるという、熱力学の逆説です。」
「この CO₂ 凍結のプロセスは、火星生命(仮説)にとって究極の非最適化でした。それは、生存に必要な熱エネルギー源と、代謝に必要な炭素源の同時喪失を意味しました。地球が地質学的活動を通じて CO₂ を循環させ、気候の安定性(少なくとも生命が耐えられる範囲での)を維持したのとは対照的に、火星は物理的な制御機構の欠如により、進化的な袋小路に陥ったのです。」
III.3. 論理接続:物理的な非効率性が強要した極端な自由
「結論として、火星の物理学史は、環境の安定性(最適化)を維持するための物理的な冗長性を欠いていました。この惑星規模の非効率的な構造が、火星の生命(仮説)に、地球生命が経験したことのない**究極の『熱力学的な死』**を強要しました。」
「火星生命は、地表で絶滅するか、あるいは地下のパーマフロスト(永久凍土)という、光もエネルギー循環もない極限のニッチへと逃避し、究極に非効率な生存戦略を強いられるかの二択に立たされました。これは、地球の進化が非効率性を許容することで自由を獲得した歴史と対比される、物理的崩壊が進化的な自由を奪った物語です。」
「次の章では、この過酷な環境へと逃避した火星生命(仮説)が、地下の放射線と乾燥というさらなる非効率性に直面し、いかに**非標準的な遺伝情報構造(火星PNA/XNA)**を獲得したかを検証します。」
(マルケス博士は、次のサエキ博士の登壇に備え、壇上を譲ります。)




