第25章 第4分科会 第2回目 二日目 ③
大気の大変革と光合成の逆説—酸素とオゾン層の成立
(登壇者:ドクター・ルイス・マルケス)
(マルケス博士が演壇に戻ります。背後のスクリーンには、**大酸化イベント(GOE)**を示す、大気中酸素濃度の急激な上昇グラフと、それに苦しむ嫌気性生物の想像図が映し出されています。)
「サエキ博士は、地質と水質という環境要因がいかに非効率な試練を生命に課したかを明確にしました。しかし、生命自身が、究極の『非最適化』を自らに強要した歴史があります。それが、本章で扱う大気の大変革です。」
「AIが考える最適化とは、『環境への適応』と『効率的な資源利用』です。しかし、進化は、**『最適な環境を自ら毒に変える』という、極めて非合理的な行動に出ました。それが大酸化イベント(GOE)**です。」
IV.1. 大酸化イベント(GOE):酸素の毒性という非合理性
「大酸化イベントとは、シアノバクテリアによる光合成が、地球大気に**酸素(O₂)という『最大の毒物』**を大量に放出した事象です。これは、当時の地球環境と生命圏の圧倒的多数—嫌気性生物—にとって、最適化の完全な崩壊を意味しました。」
「最適化されたシステムであれば、自分たちの主要なエネルギー源(光合成)の副産物が、自らの生存環境と大多数の仲間の絶滅を引き起こすのであれば、その経路を直ちに抑制するか、別の形態へ変換すべきです。
しかし、進化はそれをしませんでした。光合成は効率を追求し続け、環境に破壊的な変化をもたらしました。」
「この酸素は、当時の嫌気性生物にとって猛毒でした。GOEは、地球史上最初の、そして最も大規模なバイオテクノロジー的汚染事件であり、『酸素カタストロフィー』とも呼ばれます。嫌気性生物は、深海や地中といったニッチな環境に追いやられるか、絶滅しました。これは、『環境への適応』という最適化の原則を、生命自らが裏切った、進化の極めて非効率的な決断であったと言えます。」
IV.2. 大気変化への適応:新たな非効率性を内包した代謝
「では、この猛毒の環境に生き残った生命、特に真核生物の祖先は何をしたのでしょうか? 彼らは、酸素の毒性を無害化する、そして逆に利用する**代謝経路(好気性呼吸)**を獲得しました。」
「確かに、好気性呼吸は、嫌気性呼吸と比較してエネルギー効率(ATP生産量)は飛躍的に高い、『局所的な最適化』です。しかし、我々は全体像を見なければなりません。」
「好気性呼吸は、副産物として活性酸素種(ROS:フリーラジカル)を生成します。ROSは、細胞内のタンパク質や脂質、そしてDNAそのものに損傷を与える毒性物質であり、老化や病気の主要な原因です。つまり、生命は、より高いエネルギー効率と引き換えに、**細胞内に『新たな、永続的な非効率性(ダメージと修復のコスト)』**を内包する道を選んだのです。」
「最適解であれば、ROSのような内部毒性を生じさせない経路を探求すべきでした。しかし、進化は、エネルギー効率の『向上』と、ROSによる『絶え間ない損傷(非効率性)』という、逆説的なトレードオフを受け入れました。生命の複雑化とは、この新たな非効率性との絶え間ない闘いの歴史に他なりません。」
IV.3. オゾン層の成立:非効率な移動の自由
「大気中の酸素濃度がさらに上昇した結果、上空にはオゾン層が形成されました。これは、第1章で触れた、地上の生命にとって有害であった紫外線を遮断する**『保護膜』**です。」
「オゾン層の完成は、水中の生命に、水圏から陸上への非効率な移動という、極めて大胆な進化の選択肢を与えました。陸上は、乾燥、極端な温度変化、重力といった、水圏にはない新たな非効率的課題に満ちていました。」
「最適化であれば、安定し浮力のある水圏に留まるべきでした。しかし、オゾン層がもたらした**『安全性』は、生命に『新たなリスク(非効率性)を伴う自由』を提供しました。陸上への進出は、遺伝的な変異と多様化の爆発を促し、複雑な多細胞生物の進化という、AIの予測をはるかに超える非合理的な飛躍**を可能にしたのです。」
IV.4. 論理接続:進化は「より大きな非効率な自由」を選ぶ
「結論です。大気の大変革は、進化が**『安定した最適解』ではなく、『より大きな非効率な自由』**を選ぶことで推進されてきたことを示しています。」
「もし進化が最適化を追求していたならば、嫌気性環境を維持し、ROSを生成しない代謝経路を選び、水圏に留まったはずです。しかし、生命は、酸素の毒性やROSといった非効率性を甘受し、陸上へのリスクを冒すことで、より複雑で、予測不能な、そして非線形な進化の軌跡を描き始めました。この進化の非合理性こそが、我々が提唱するゲノムの自由の核心を成すのです。」
(マルケス博士は、次のサエキ博士の登壇に備え、壇上を譲ります。)




