第24章 第4分科会 第2回目 二日目 ②
水の惑星の熱力学的試練—水質とスノーボールアース
(登壇者:サエキ・リョウ)
(サエキ博士は、再び演壇に立ちます。背後のスクリーンには、**縞状鉄鉱層(BIF)**の鮮やかな模様と、**全球凍結**の氷に覆われた地球の想像図が映し出されています。)
「第1章では、生命誕生の舞台が、地質学的にも大気的にも極度の非平衡状態であったことを確認しました。本章では、生命の主要な溶媒である**『水』が、進化の初期段階でいかに熱力学的な試練**を強要し、非効率的な適応を促したかを検証します。」
III.1. 初期海洋の組成:最適化されない水質
「生命の発生後、初期海洋の水質は、今日のような安定した組成とはかけ離れていました。それは、進化が**『常に安定した最適な化学環境』**を求めてきたというAIの論理を、根本から否定するものです。」
「特に重要なのは、海洋中の高濃度鉄分と硫化物のダイナミクスです。酸素がまだ稀薄であった初期の海洋では、熱水噴出孔や海底の火山活動から供給された大量の**二価鉄が海水中に溶解していました。この『鉄に満ちた海』は、後の縞状鉄鉱層(BIF)**となって地層に残されています。」
「初期の代謝系、特に化学合成独立栄養生物は、この非最適化な水質に適応せざるを得ませんでした。彼らは、今日我々が見るような洗練された代謝パスウェイではなく、硫化水素や鉄といった、環境中に不安定な形で存在する物質をエネルギー源として利用する、非常に制約された、非効率的な経路を獲得しました。」
「この過程で、生命は、環境中の化学的変動、すなわち水質とpHの急激な変化に対応するため、細胞膜透過性や酵素の活性を調節する複雑で冗長なメカニズムを発達させました。最適化であれば、安定的な溶媒を用いるべきです。しかし、地球生命は、**不安定な環境(非効率性)**に合わせて、**複雑な調節系(冗長性)を組み込むという形で、進化の『自由』**を行使したのです。」
III.2. スノーボールアース:究極の非効率的イベント
「地球生命史における最大の熱力学的試練であり、進化の非合理的な断絶点となったのが、新原生代(約7.2億年〜6.3億年前)に繰り返された**スノーボールアース(全球凍結)**です。」
「これは、大陸の集合・散開による**アルベド効果(太陽光の反射)の変化と、大気中の二酸化炭素濃度の変動が引き起こした、地球規模の『究極の非効率的イベント』です。文字通り、地球全体が厚い氷に覆われ、海洋の大部分が閉ざされ、生命の絶滅寸前の状況を迎えました。最適化を追求するAIの論理は、『存続確率が極めて低いイベント』**を繰り返す地球の振る舞いを、決して合理的に説明できません。」
「しかし、我々の解析は、この非合理的な試練が、進化の非線形な飛躍を可能にしたという逆説を示しています。」
「全球凍結からの脱却は、氷床の下で蓄積された大量の二酸化炭素の急激な放出によって引き起こされました。この結果、地球は一時的に超温室状態となり、水質、大気、温度が一変する**『環境のビッグバン』が発生しました。この劇的な環境の解放は、初期の多細胞生物、そして真核生物の本格的な多様化、すなわちカンブリア爆発へと続く遺伝的な大革新**を促しました。」
III.3. 論理接続:極限の非効率性が獲得させた冗長性
「この熱力学的試練は、生命に何を教えたのでしょうか。それは、環境が『最適』である期間は一時的であり、進化は常に『最悪のシナリオ』に備えなければならないということです。」
「水質と気候の劇的な変動は、生命に**『遺伝的な冗長性』を強要しました。例えば、細胞は、特定の温度や特定の水質でのみ効率的に機能する単一の最適解**ではなく、**広範な環境ストレス下で非効率ながらも存続を可能にする、複数の代謝経路や遺伝子コピー(多重遺伝子)**を持つ必要に迫られました。」
「この遺伝的冗長性、すなわち**ゲノムの『余白』と『非効率性』こそが、後の進化における、ウイルスという『影の遺伝子』による予測不能な情報挿入を許容する『進化的な懐の深さ』**となったのです。生命は、最適化の道を拒否し、極限の非効率性を乗り越えることで、非線形な進化の自由を獲得したのです。」
(サエキ博士は、次のマルケス博士の登壇に備え、演壇を譲ります。)




